「直江兼続」の版間の差分

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[[越後国|越後]]上田庄(うえだのしょう)で生まれた。通説では、[[永禄]]3年([[1560年]])に[[樋口兼豊]]([[源義仲|木曾義仲]]の重臣・[[今井兼平]]の兄弟である[[樋口兼光]]の子孫と言われている)の[[長男]]として、[[坂戸城]]下(現在の[[新潟県]][[南魚沼市]])に生まれたとする説と、現在の[[南魚沼郡]][[湯沢町]]に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説がある。父・兼豊の身分についても見解が分かれている。[[米沢藩]]の記録書『古代士籍』『上田士籍』では[[長尾政景]][[家老]]、上田執事との記載がある一方、『[[藩翰譜]]』によれば兼豊は薪炭吏だったといわれている。母は[[上杉家]]重臣・[[直江景綱]]の妹とする説と、[[信濃国|信州]]の豪族・[[泉重歳]]の娘とする説と、またそのどちらでもないとする説がある。
 
なお後述される、後に兼続の位牌が納められた東源寺は、尾崎氏(泉氏)が開基した菩提寺である。
 
永禄7年([[1564年]])に[[上田長尾家]]当主の政景が死去すると、上杉輝虎([[上杉謙信|謙信]])の養子となった政景の子・顕景(後の[[上杉景勝]])に従って[[春日山城]]に入り、景勝の[[小姓]]・近習として近侍したとも、[[仙桃院]](謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたとも言われる。
 
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== 死後 ==
兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重(後に加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶した。「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。これらの説に確証は無いものの、養子縁組解消した本多政重の加賀藩帰参により、多数の上杉家・直江家家臣がそれに付き従って加賀藩に仕官する事となり、上杉家は結果的に大幅な人員削減ができたのは事実である。政重と景勝、兼続には以後も親密な交流が続いており、この円満に人員削減を図ったとの見方は有力視されている<ref>本多俊彦「本多政重家臣団の基礎的考察 ― その家臣団構成について ―」、『高岡法科大学紀要』20号、2009年</ref>
 
兼続死去から18年後の[[寛永]]14年([[1637年]])に妻・船が死去。兼続と船が行っていた藩政運営は、兼続の右腕として働いていた[[平林正興]]に引き継がれた。正興は兼続亡き後の寛永17年([[1640年]])に製作された往古御城下絵図に陪臣で唯一「殿」の尊称がついており、別格扱いを受けていたことが証明されている。正興によって兼続の祐筆を務めていた[[木次左近]]が郡代に就任している等、米沢藩内での直江派閥である与板組の権力は保持され続けた。
 
上述の通り、兼続と船は直江家菩提寺の徳昌寺に葬られたが、徳昌寺と上杉家菩提寺の林泉寺との間で争いが起こり、敗れた徳昌寺は越後に逃れたとされる。直江夫妻の墓石と位牌は尾崎家菩提寺の東源寺に移され、後に藩庁の裁定により林泉寺へと再び移された。位牌と遺骨はのみ東源寺に残されたともいわれ(一般非公開)、現在でも埋葬地について異説がある。分骨が高野山清浄心院に納められている。なお[[新潟県]][[長岡市]][[与板町]]に現存する徳昌寺には、米沢追放時に遺臣によって移されたとする直江夫妻の位牌が祀られている。
 
法名の達三全智居士は詩・文・武の三つに秀でたとの意味であり、上杉家の問い合わせによって妙心寺の海山元珠が由来を記したものが残っている。のちに院号が追加されて英貔院殿達三全智居士となる<ref name="kimura_130"/>。
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* [[南化玄興]]、[[西笑承兌]]などと親交があり、文化人・蔵書家として有名であった。兼続は若い頃から漢文学に親しみ、自ら漢詩も詠んだほか、連歌もよくし、当代一流の文化人の連歌会に名を連ねている。江戸中期の儒学者新井白石は、「その詩才は疑うべくもない」と賞賛している。また古今東西の歴史書や医学書、仏教典籍を書写・蒐集している。兼続蔵書である宋版『[[史記]]』『[[漢書]]』『[[前漢書]]』は、南化和尚から贈られた物であり、いずれも[[国宝]]に指定されている。また木活字による『[[文選 (書物)|文選]]』([[直江版]])の出版や、米沢藩の学問所である禅林文庫(後の[[興譲館]]、現在の[[山形県立米沢興譲館高等学校]])を創立している。
* 兼続は朝鮮の役の際、肥前名護屋城に滞陣中のわずか2ヶ月間に300巻の医学書を書写させている。また渡海後は士卒に略奪を戒めるとともに、兵火にさらされた漢籍を救い出し、日本に持ち帰っている。また江戸初期の儒学者藤原惺窩は[[姜コウ|姜沆]]に与えた書中で「近世、文を戦陣の間に好む者は、上杉謙信、小早川隆景、高坂昌信、直江兼続、赤松広通のみ」と評している<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)133頁</ref>。
* 「[[愛]]」という字を[[兜#立物|前立]]にあしらった[[兜]]が兼続の所用として米沢市の[[上杉神社]]稽照殿に伝わっている。これは、謙信が愛宕神社に武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書が歴代古案に集録されており、一般に愛宕の愛からとする説が有力である。この前立(愛の字瑞雲前立)の三日月状の台座は銀板で瑞雲を象ったもので、当時は白銀色に輝いていた。白雲に乗って顕現する神仏の表現である。この瑞雲に乗った神仏の肖像や文字をあしらった形式の前立は、伝[[上杉憲政]]甲冑(宮坂考古館所蔵)、上杉謙信・景勝甲冑(上杉神社、宮坂考古館所蔵)などの上杉家当主の兜前立によく見られるもので、兜のつくりも上杉家独自とされる二重錣であった。この兜と前立は兼続自身が作製させたものではなく、謙信もしくは景勝が拵えたものを兼続に下賜したものと考察されている<ref>竹村雅夫『上杉謙信・景勝と家中の武装』』(宮帯出版社、2010年1月発行) </ref>。また、この兜鉢には「上州八幡」の銘があり、関越の諸武将に愛用された[[上州]]甲冑師の一人によるものである。この銘は確認される限りで、兼続所用兜愛の字瑞雲前立鉄錆地六十二間筋兜)、[[村上市]]郷土資料館所蔵の[[本庄繁長]]所用兜(鉄錆地六十二間小星兜)、[[ドイツ]][[ベルリン]]サムライアート博物館所蔵の小星兜の三点のみである<ref>平野進一・永田仁志『上州甲冑師の基礎的研究-成国とその周辺』(日本甲冑武具研究保存会、2003年1月発行)</ref>
 
* 『常山紀談』、『北越軍記』によると、あるとき兼続の家臣([[三宝寺庄蔵]])が下人(五助)を[[無礼討ち]]した。すると、その遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴えの通りだったので、兼続は遺族に白銀20枚を支払うように命じた。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らない。兼続は様々に言ったが、聞きいれようとしなかったので、すると兼続は「地獄に行って迎えに行け」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒してその横に高札を立て、そこに「この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続」と[[閻魔大王]]への嘆願書を書いたという<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)458頁-459頁</ref>。この逸話は、会津への国替えに抵抗する勢力を兼続が処断し、それ以来、国中の騒動が治まった史実を投影している可能性があるとされている<ref>今福匡『直江兼続』(新人物往来社、2008年)191頁</ref>。
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** 渡辺三省『正伝直江兼続・別篇関ヶ原戦縦横』(恒文社、[[1999年]]発行)ISBN 477040994X
** 特別展「直江兼続」(米沢市上杉博物館、2007年4月発行)
** 竹村雅夫『上杉謙信・景勝と家中の武装』』(宮帯出版社、2010年1月発行)
** 平野進一・永田仁志『上州甲冑師の基礎的研究-成国とその周辺』(日本甲冑武具研究保存会、2003年1月発行)
** 本多俊彦「本多政重家臣団の基礎的考察 ― その家臣団構成について」(『高岡法科大学紀要』20号、2009年発行)
** 井形朝良『直江兼続公小伝』(米沢御堀端史蹟保存会、2007年7月発行)
** 花ヶ前盛明『直江兼続』(新潟県人物小伝)(新潟日報事業社、 2008年4月発行)ISBN 9784861322662