「禅林墨跡」の版間の差分

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中国の著名な禅僧のもとには、日本だけでなく[[朝鮮]]からも多く集まり、その参徒数は中国人を凌ぐほどであったという。円爾の他、この時期の主な日本人留学僧には、[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]に嗣法した[[南浦紹明]]、[[#断橋妙倫|断橋妙倫]]に参じた[[無関普門]]、[[#希叟紹曇|希叟紹曇]]に参じた[[#白雲慧暁|白雲慧暁]]などがいる。
 
元代になるとその墨跡は[[趙孟フ|趙孟頫]]の影響を受けて書法的にすぐれたものが多く、これら趙孟頫の書法を伝えたのは、[[雪村友梅]]や[[寂室元光]]などの留学僧である。さらに[[#無隠元晦|無隠元晦]]などの留学僧によって[[#馮子振|馮子振]]の清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡とよばれて[[茶人]]の間で愛玩された。
 
このように入宋・入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられた[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]・[[#偈頌|偈頌]]などを持ち帰えり、それが大切に保存されて墨跡として珍重されている。それらの墨跡の中で特に注目されたものは、まず第一に今日、日本に伝わる最古の[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]のもの、その[[法嗣]]の[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]のもの、[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]・[[無準師範]]・[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]など[[#虎丘派|虎丘派]]のもので、圜悟克勤の系統の[[#楊岐派|楊岐派]]のものにほぼ限られている。これらの禅僧も張即之と交流を結び、その影響を受けた者が多い。元代の墨跡では[[#松源派|松源派]]の[[#古林清茂|古林清茂]]・[[#月江正印|月江正印]]・[[#了庵清欲|了庵清欲]]、[[#大慧派|大慧派]]の[[#楚石梵琦|楚石梵琦]]などのものが注目され、趙孟頫の影響を受けている。
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| 1280年 || <span id="円爾遺偈">遺偈</span> || [[円爾]] || [[#遺偈|遺偈]] || なし || || 東福寺 || 重文
|-
| 12xx年 || [[#虚堂智愚法語|法語]] || [[#虚堂智愚|虚堂智愚]] || 法語 || [[#無象静照|無象静照]] || 張即之 || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 12xx年 || 達磨忌拈香語 || 虚堂智愚 || [[香語]] || || 張即之 || [[大徳寺]] || 国宝
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| 12xx-13xx年 || <span id="馮子振画跋">画跋</span> || [[#馮子振|馮子振]] || [[書道用語一覧#題跋|跋文]] || || 黄庭堅 || [[常盤山文庫]] || 国宝
|-
| 1312-1319年 || [[#与無隠元晦詩|与無隠元晦詩]] || 馮子振 || 偈頌 || [[#無隠元晦|無隠元晦]] || 黄庭堅 || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 1315年 || <span id="雪夜作">雪夜作(せつやさく)</span> || [[一山一寧]] || 詩 || || || [[建仁寺]] || 重文
|-
| 1316年 || <span id="一山一寧進道語">進道語</span> || 一山一寧 || [[#進道語|進道語]] || [[#固山一鞏|固山一鞏]] || || [[根津美術館]] || 重文
|-
| 12xx-13xx年 || [[#与済侍者法語|与済侍者法語]] || [[#中峰明本|中峰明本]] || 法語 || 済侍者 || || 常盤山文庫 || 重文
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| 1367年 || <span id="寂室元光遺偈">遺偈</span> || 寂室元光 || 遺偈 || なし || || [[永源寺]] || 重文
|-
| 1363年 || 勅額仏事語 || [[#石室善玖|石室善玖]] || 慶讃辞 || なし || || 東京国立博物館 || 重文
|-
| 13xx年 || 寒山詩 || 石室善玖 || 詩 || || || 根津美術館 ||
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[[ファイル:Senbetsunoge.jpg|thumb|right|300px|『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』(古林清茂筆、[[五島美術館]]蔵、国宝)]]
 
'''古林 清茂'''(くりん せいむ、1262年 - 1329年)は、中国・南宋から元時代の禅僧。俗姓は林、諱は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。[[温州市|温州]]の人。[[#横川如コウ|横川如珙]]の[[法嗣]]、門下に[[#了庵清欲|了庵清欲]]・[[竺仙梵僊]]、日本僧では[[月林道皎]]・[[#石室善玖|石室善玖]]らがいる。[[#中峰明本|中峰明本]]と並んで元代中期の禅林の巨匠で、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの高僧である。著に『古林茂禅師語録』、『宗門統要続集』が知られる。
 
古林は[[#馮子振|馮子振]]と交遊があり、書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている。また文学にも造詣が深く、入元僧はそのような古林の士大夫的教養に憧れてその門に学んだ。元代は南宋時代に増して禅林が様々な文化との関わりを強め、特に文学への関心が高かった。が、その内容は次第に世俗化し、禅僧の本分を弁えず[[#大慧派|大慧派]]の人々の詩文は一般の詩に同化していった。古林はこうした傾向を阻止しようと題材を仏教に限定した[[#偈頌|偈頌]]を重視したが、大慧派の[[#笑隠大キン|笑隠大訢]]の出現によって、禅林文学は偈頌から[[駢文|四六駢儷文]]にその中心を移したといわれる<ref name="ibuki136"/><ref name="nigensya73">二玄社(書道辞典) p.73</ref><ref name="horie198">堀江知彦 p.198</ref><ref>中西慶爾 pp..212-213</ref>。
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; {{Visible anchor | 虚堂智愚法語}}
: 虚堂が入宋中の[[#無象静照|無象静照]]に書き与えた[[#法語|法語]]。江戸時代、京都の茶人・大文字屋がこの墨跡を所蔵していたとき、その[[手代]]が蔵の中に立てこもり、切り破ってしまったことから、俗に'''破れ虚堂'''と呼ばれる。その後、[[松平治郷|松平不昧]]の手に渡り、1938年に[[帝室博物館]](東京国立博物館の前身)に寄贈された<ref>「特集 東京国立博物館陳列品収集の歩み」『MUSEUM』262号、pp.14, 26, 31</ref>。
 
: 墨跡中の「日」の字と左払いの[[用筆]]が特異である。紙本、28.5cm×70cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''虚堂智愚墨蹟(法語)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref name="nagoya_taiyou174"/>。
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{{main|一休宗純}}
 
'''一休宗純'''は、大徳寺第23世・[[#華叟宗曇|華叟宗曇]]の法嗣、同寺第48世として住持する。大徳寺は[[五山十刹]]の[[官寺]]に属さず独自の展開をとげた<ref>[[大徳寺]]は[[後醍醐天皇]]によって[[南禅寺]]と同格の地位を与えられえたり、[[十刹]]に[[官寺]]した時期もあったが、[[#養叟宗頤|養叟宗頤]]のときに官寺から離脱した(伊吹敦 p.225)。</ref>が、[[応仁の乱]]で大きな被害をこうむった。一休が住持したのはこの時で、その復興を成し遂げた。また一休は名利を求めず権力に媚びない性格で、禅林の世俗化を激しく批判するとともに、[[堺]]の街を[[木刀]]や[[骸骨]]を提げて歩いたり、[[酒場]]や[[遊郭]]に繰り出したり、飼っていた[[スズメ|雀]]に[[僧位]]を与えたりなどの奇行によって、京都や堺の居住者の人気を得た。
 
一休の書も中世から近世の墨跡の中で特に際立ち、珍重された。破格といえるその書は、一見しただけでは中国書法とのつながりがほとんど感じられない。しかしそこには、黄庭堅や張即之の書風に[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の雑体書風が加味され、さらに宗峰妙超の運筆が見られる。つまり和様と中国風が合体した無法の書で、[[#近世の墨跡|近世の墨跡]]の先駆けとなった<ref name="ibuki225"/><ref name="ishikawa_syoshi101"/><ref>可成屋 p.74</ref><ref name="mutobe123">六人部克典 p.123</ref>。
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中峰は書をよくしたが、その書は破格であり、[[書法#露鋒|露鋒]]で扁平な[[筆画]]が柳や笹の葉に似ていることから、中国では柳葉体・柳葉書などといわれ、日本では古来、笹の葉書きと呼んでいる。ただし[[篆書体|篆書]]の一体に[[西晋]]の[[衛カン|衛瓘]]が作ったとされる柳葉篆というものがあり、中峰の書は厳密にいえば必ずしも独創的なものではない。
 
中峰に参じた多くの日本人入元僧([[#復庵宗己|復庵宗己]]・[[#遠渓祖雄|遠渓祖雄]]・[[古先印元]]など)が帰朝後、中峰に倣って放浪の生活を好んだため、一括して幻住派(遠渓祖雄を祖とする)と呼ばれる。著に『幻住庵清規』など多数が知られる<ref name="suzukihiro110"/><ref name="horie502">堀江知彦 p.502</ref><ref>中田勇次郎(法語 済侍者) p.164</ref><ref>中西慶爾 p.490</ref><ref>中西慶爾 p.673</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.178</ref><ref>伊吹敦 p.135</ref><ref>伊吹敦 p.243</ref>。
 
; {{Visible anchor | 与済侍者法語}}
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'''馮 子振'''(ふう ししん、1257年 - 1327年以後)は、中国・元時代の[[居士]]の俊英として知られた。字は海粟(かいぞく)、海粟道人・怪道人などと号した。[[攸県|攸州]]の人。官は集賢待制史となる。博学で詩文にすぐれ、その博識ぶりは、天下の書で彼が知らないものはないと言われた。よって当時、趙孟頫とともに文名を馳せたが、馮子振の書風は特異であったため、その書を記載する文献は少なく、書人としての名はなかったようである。
 
馮子振は禅学に心を寄せ、[[#中峰明本|中峰明本]]や[[#古林清茂|古林清茂]]と親交があったため、僧侶ではないがその書は[[#無隠元晦|無隠元晦]]・[[放牛光林]](ほうぎゅう こうりん、1289年 - 1373年)・[[月林道皎]]ら入元の禅僧らによって日本にもたらされ、墨跡と同等に尊重された。無隠と放牛は馮子振と交友があり、その書は馮子振から直接、贈られたものである<ref name="suzukihiro102"/><ref name="horie646">堀江知彦 p.646</ref><ref>中西慶爾 pp..844-845</ref><ref name="nishibayashi_gen44">西林昭一(元・明) pp..44-45</ref><ref name="nigensya223">二玄社(書道辞典) p.223</ref>。
 
; {{Visible anchor | 与無隠元晦詩}}
 
: 『与無隠元晦詩』(むいんげんまいにあたう し)は、馮子振が元朝に滞留中の[[#無隠元晦|無隠元晦]]に書き与えた偈。[[皇慶 (元)|皇慶]]・[[延祐]]年間(1312年 - 1319年)の頃のものと推定されている。黄庭堅の書法をふまえた書風で、元代の日常筆記体の一端を垣間見ることができる。紙本、32.7cm×102.5cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''馮子振墨蹟(与無隠元晦詩)''')<ref name="horie646"/><ref name="nishibayashi_gen44"/><ref name="nigensya223"/><ref>石川九楊(日本書史) p.100</ref>。
 
=== その他 ===
586行目:
****** [[石霜楚円]](せきそう そえん、986年 - 1039年、中国・北宋)
******* <span id="黄龍慧南">[[黄龍慧南]]</span>(おうりょう えなん、1002年 - 1069年、中国・北宋、'''[[#黄龍派|黄龍派]]''')
******* <span id="楊岐方会">[[楊岐方会]]</span>ようぎ ほうえ、992年 - 1049年、中国・北宋、'''[[#楊岐派|楊岐派]]''')
 
=== 黄龍派 ===
604行目:
=== 楊岐派 ===
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以下、[[#楊岐方会|楊岐方会]]の法系を記す。
 
* [[白雲守端]](はくうん しゅたん、1025年 - 1072年、中国・北宋)
672行目:
**** [[月林道皎]](日本・鎌倉、1330年帰朝)
**** [[#別源円旨|別源円旨]](日本・南北朝、1330年帰朝)
**** <span id="石室善玖">[[石室善玖]]</span>せきしつ ぜんきゅう、1293年 - 1389年、日本・南北朝、1318年入元、1326年帰朝)
* [[無得覚通]](むとく かくつう、中国・南宋)
** [[虚舟普度]](きしゅう ふど、1196年 - 1277年、中国・南宋)
695行目:
** <span id="石渓心月">[[石渓心月]]</span>(しっけい しんげつ、? - 1254年以後、中国・南宋)
*** [[大休正念]](中国・南宋、1269年来朝、大休派・仏源派)
*** <span id="無象静照">[[無象静照]]</span>むしょう じょうしょう、1234年 - 1306年、日本・鎌倉、1265年帰朝、法海派)
* <span id="無明慧性">[[無明慧性]]</span>(むみょう えしょう、1162年 - 1237年、中国・南宋)
** '''[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]'''(中国・南宋、1246年来朝、大覚派・[[臨済宗建長寺派|建長寺派]])
725行目:
 
* <span id="言外宗忠">[[言外宗忠]]</span>(ごんがい そうちゅう、1305年 - 1390年、日本・南北朝)
** <span id="華叟宗曇">[[華叟宗曇]]</span>けそう そうどん、1352年 - 1428年、日本・室町)
*** '''[[#一休宗純|一休宗純]]'''(日本・室町)
**** [[墨斎紹等]](ぼくさい しょうとう、? - 1496年、日本・室町)
*** <span id="養叟宗頤">[[養叟宗頤]]</span>ようそう そうい、1379年 - 1458年、日本・室町)
**** [[春浦宗煕]](しゅんぽ そうき、1416年 - 1496年、日本・室町)
***** [[実伝宗真]](じつでん そうしん、1434年 - 1507年、日本・室町)
775行目:
 
* [[高峰顕日]](日本・鎌倉)
** [[天岸慧広]](でんがん えこう、1273年 - 1335年、日本・鎌倉から南北朝、1329年帰朝)
** [[夢窓疎石]](日本・鎌倉から南北朝、夢窓派・[[臨済宗天龍寺派|天龍寺派]]・[[臨済宗相国寺派|相国寺派]])
*** [[無極志玄]](日本・鎌倉から南北朝)
809行目:
******** [[独立性易]](中国・明から清、1653年来朝)
**** [[大拙祖能]](日本・南北朝、1358年帰朝、大拙派)
*** <span id="復庵宗己">[[復庵宗己]]</span>ふくあん そうこ、1280年 - 1358年、日本・鎌倉から南北朝、復庵派)
*** <span id="遠渓祖雄">[[遠渓祖雄]]</span>(えんけい そおう、1286年 - 1344年、日本・鎌倉から南北朝、1316年帰朝、遠渓派・幻住派)
*** [[古先印元]](日本・鎌倉から南北朝、1326年帰朝、古先派)
*** '''[[#馮子振|馮子振]]'''(中国・元、[[居士]])
*** <span id="無隠元晦">[[無隠元晦]]</span>むいん げんかい、? - 1358年、日本・南北朝、[[豊前国|豊前]]の人)
 
====== 聖一派 ======
819行目:
以下、[[円爾]]の法系を記す。
 
* [[東山湛照]](とうざん たんしょう、1231年 - 1291年、日本・鎌倉)
** [[虎関師錬]](日本・南北朝)
* [[無関普門]](日本・鎌倉、1251年入宋、1262年帰朝、[[臨済宗南禅寺派|南禅寺派]])
* [[南山士雲]](なんざん しうん、1254年 - 1335年、日本・鎌倉)
** [[乾峰士曇]](けんぽう しどん、1285年 - 1361年、日本・鎌倉から南北朝)
* <span id="白雲慧暁">[[白雲慧暁]]</span>(はくうん えぎょう、1228年 - 1297年、日本・鎌倉)
* [[癡兀大慧]](日本・鎌倉)
* [[蔵山順空]](ぞうざん じゅんくう、1233年 - 1308年、日本・鎌倉)
** <span id="固山一鞏">[[固山一鞏]]</span>こざん いっきょう、1284年 - 1360年、日本・鎌倉から南北朝)
 
===== 曹源派 =====
838行目:
**** [[雪村友梅]](日本・南北朝、1329年帰朝)
***** [[太清宗渭]](日本・南北朝)
****** [[太白真玄]](たいはく しんげん、? - 1415年、日本・南北朝から室町)
 
== 脚注 ==