「小唄勝太郎」の版間の差分

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==経歴==
[[1904年]](明治37年)、[[新潟県]][[中蒲原郡]][[沼垂町]](現在の[[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]])生まれ。親戚の経営する料亭「鶴善」の養女となり、[[1917年]](大正6年)、小学校卒業と同時に鶴善からお勝の名で雛妓(おしゃく)としてお披露目。以後、長さ430間の木橋「萬代橋」を毎日渡り、新潟古町まで芸の修行に通った。25歳で年季が明け、好きな[[清元節|清元]]の師匠として身を立てるべく、[[1929年]](昭和4年)3月に上京<ref>「主婦と生活」1950年10月号</ref><ref>「小説新潮」1955年2月号</ref>。師匠の清元延富貴葉(新福本という芸者家の名妓ちゃら)の勧めにより、東京葭町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋人形町]])の松三河家から、看板借りで再び芸者としてお披露目し、勝太郎と名乗る。[[1930年]](昭和5年)10月、川辰中の看板を上げて独立<ref>「女藝者の時代」岸井良衞著(1974年青蛙房刊)</ref>。清元の他、新内、うた沢、長唄などの研鑽を続け、哥沢〆勝、清元梅勝治という名取りとなる<ref>「主婦と生活」1950年10月号</ref>。愛くるしい笑顔と美声が評判となり、「佐渡おけさ」の上手な芸者として次第に名を上げ、やがてはレコード会社からも注目を浴びることとなる。同じ葭町花街から出ていた[[藤本二三吉]]に続き、勝太郎もレコードデビュー。[[オデオンレコード]]に数曲吹き込んだ後、[[1931年]](昭和6年)[[日本ビクター|ビクターレコード]]と正式に契約。初期の芸名は葭町勝太郎であった。
 
[[1932年]](昭和7年)、[[銀座の柳]]植樹記念として作られた『柳の雨』が、A面の[[四家文子]]が歌う『銀座の柳』とともに大ヒット。葭町勝太郎のヒット作第1号となる。同年の大晦日、新進作曲家の[[佐々木俊一]]が作曲した『[[島の娘]]』が放送されると、聴取者から大反響を呼び、翌[[1933年]](昭和8年)に発売されたレコードは発売から3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット作となった。当時、著名な音楽評論家が「『島の娘』より、ベートーベンの方が好きだという人がいるとしたら、その人は日本人ではなくドイツ人である。」と絶賛したほどであった。歌いだしが「ハァー」と始まる『島の娘』のヒットを受けて、いわゆる「ハァ小唄」と言われる流行歌が次々と世に出ることとなる。だが、『島の娘』は当局から「歌詞<!--「娘十六恋ごころ 人目しのんで主とひとよのあだなさけ」-->に問題アリ」とされ、歌詞の一部を改作させられた。その後、太平洋戦争に突入する頃には[[発禁]]処分を受け、歌うことも禁じられてしまった。
 
一躍、人気歌手となった勝太郎は、『大島おけさ』『佐渡を想えば』と連続してヒットを出すが、決定打となったのは、[[盆踊り]]のシーズンに発売された『[[東京音頭]]』である。前年に葭町の先輩[[藤本二三吉]]が歌った『丸の内音頭』の替歌として発売されたこの曲は、民謡調を得意とした[[三島一声]]とのデュエットによってレコーディングされ、東京だけでのみらず、日本全国の盆踊りは『東京音頭』一色に染まったのであった。
 
人気絶頂の勝太郎は、葭町の芸者を廃業し、レコード歌手に専念することを決意。[[1933年]](昭和8年)11月、歌舞伎座で「小唄勝太郎」襲名の披露興行が華やかに開催された(二夜連続公演)。同時に小唄不二派を創流し、家元となる(現存する小唄不二派とは無関係)。小唄勝太郎を名乗ってから、翌年春のシーズンに発売された『[[さくら音頭]]』は、それぞれ異なった作詩・作を変えて家による各社競作となるほどの大ヒットとなったが、本家ビクターの勝太郎盤が最も売り上げを伸ばした。勝太郎の人気により、レコード業界に[[うぐいす芸者歌手|鶯歌手]]旋風が巻き起こり、同じビクターから[[市丸]]、[[日本コロムビア|コロムビア]]からは[[赤坂小梅]]、[[豆千代]]、[[ポリドール・レコード|ポリドール]]からは[[新橋喜代三]]、[[浅草〆香]]、[[タイヘイレコード|ニットー]]からは[[美ち奴]]、[[日本橋きみ栄]]と続々と芸者出身の歌手が人気を博したが、中でも同じ会社の[[市丸]]とは相当なライバル意識を持っていたようであった。市丸は後に「勝っちゃんが歌い終わるとするようなにっこり笑う顔がどうにも愛嬌があって、あたしにはとてもできなかったの」と語っているが、当時二人は出番や着物、出演料に至るまで相当張り合っていた。新聞は勝太郎主体の記事の場合は「勝市時代」、市丸主体の記事の場合は「市勝時代」と書かねばならぬほどであった。
 
[[1936年]](昭和11年)、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。『娘船頭さん』『あんこ椿』と順調にヒットを続ける一方で、1937年(昭和12年)、作詞家の[[西條八十]]や[[松竹歌劇団|SKD]]の[[江戸川蘭子]]らとともに中国大陸に戦地慰問に赴いていたのをきっかけに、その後も何度と無く、前線の将兵を慰問している。[[1938年]](昭和13年)、戦地で病に倒れた際に、軍医・眞野鐐一氏と知り合い、二人は戦後になってからの[[1950年]](昭和25年)に結婚した。
[勝太郎が亡くなった折の雑誌の取材では、築地にあった勝太郎の家に眞野氏の友人が下宿しており、[[1948年]](昭和23年)頃にその友人を訪ねた際に勝太郎と知り合ったのが出逢いの真相だという。有名な中国でのエピソードについては否定している。<ref>「女性セブン」1974年7月10日号</ref>]
 
戦時中も勝太郎の活躍は続き、[[1942年]](昭和17年)に発売された『明日はお立ちか』は、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。[[1946年]](昭和21年)、コロムビアに移籍。[[古賀政男|古賀メロディー]]『伊豆の七島』、親交の深かった歌舞伎俳優・[[市村羽左衛門 (15代目)|十五世市村羽左衛門]]を偲ぶ『橘屋』などをレコーディングするが、[[1948年]](昭和23年)には[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]に移籍した。映画主題歌『大島情話』がヒット。[[1950年]](昭和25年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、[[渡辺はま子]]、三味線けい子らと渡米し、[[ハワイ]]、[[ロサンゼルス]]、[[サンフランシスコ]]と、現地の[[日系人]]に『東京音頭』の歌手として大人気を博す。さらに、[[東海林太郎]]らとともに[[ブラジル]]へも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。
 
[[1961年]](昭和36年)、設立間もない[[EMIミュージック・ジャパン|東芝]]に移籍。主に端唄・民謡を中心にレコーディング活動を続けた。昭和40年代の[[懐メロ]]ブームには欠かせない存在となり、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]の「[[なつかしの歌声]]」には常連のメンバーで、死の直前まで出演している。たゆまぬ精進が認められ、[[1971年]](昭和46年)[[紫綬褒章]]受章。さらに[[1974年]](昭和49年)にはそれを記念して[[勲等|勲四等]][[宝冠章]]を受章。古巣のビクターで『島の娘』や『東京音頭』など往年、テイチクでは『びんヒット曲をほつれ』『春雨』などの端唄が再レコーディングするなど、積極的に活動しされていたが、[[肺癌]]のため同年6月、東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]の自宅で69年の生涯を閉じた
 
[[1973年]](昭和48年)8月、タヒチへの旅行から帰ってから身体の不調を訴えるようになり、[[1974年]](昭和49年)6月、[[肺癌]]のため、東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]の自宅で69年の生涯を閉じた。同年、[[勲等|勲四等]][[宝冠章]]を追贈され、小唄勝太郎の輝かしい功績が讃えられた。
 
代表曲の一つである『柳の雨』は、戦後の[[1947年]]4月に再発され、[[1959年]]暮れまでに再発盤だけで37万3000枚を売り上げるロングヒットとなっている<ref>「かくれたベスト・セラーレコード」『[[読売新聞]]』1960年3月12日付夕刊、5面。</ref>。