「1971年のメジャーリーグベースボール」の版間の差分

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== できごと ==
アメリカンリーグ
*東地区は、オリオールズが[[マイク・クェイヤー]] (21勝)、 [[デーブ・マクナリー]] (20勝)、[[ジム・パーマー]] (20勝)に加えてこの年パドレスから来た[[パット・ドブソン]](20勝)の4人が20勝を達成して「20勝投手カルテット」を形成し、主軸の[[ブルックス・ロビンソン]](打率.272・本塁打20本・打点92)、[[フランク・ロビンソン]](打率281・本塁打28本・打点99)、[[ブーグ・パウエル]](打率.256・本塁打22本・打点92)が健在で、101勝で地区3連覇・リーグ3連覇となった。3年連続100勝以上したチームはアメリカンリーグでは1929~1931年までのアスレチックス以来で常勝軍団時代のヤンキースでもなかった記録である。しかし主軸打者3人とも峠を越えてフランク・ロビンソンはシーズン終了後ドジャースへ放出し、やがて一方西地区優勝してもアスレチックスに勝てずパウエルも4この後インに新監督となった[[ディック・ウィリンスに移籍ムズ]]の下で低迷期を脱した。西地区はアスレチックスが前年18勝し頭角を現してきた[[キャットフィッシュ・ハンター]](21勝)、21歳の新人[[ヴァイダ・ブルー]](21勝)、そして打撃では[[レジー・ジャクソン]](打率.277・本塁打32本・打点80)、サル・バンドー(打点94)らが打ち、投打が絡み合って初の地区優勝した。[[リーグチャンピオンシリーズ]]は地力で勝る2年連続優勝のオリオールズが勝ち、リーグ3連覇となった。しかし主軸打者3人とも峠を越えてフランク・ロビンソンはシーズン終了後ドジャースへ放出し、やがて地区優勝してもアスレチックスには勝てず、ブーグ・パウエルも4年後インディアンスに移籍した。翌年から投打に有力な人材が投打に揃ったアスレチックスの黄金時代が到来する。
*個人タイトルは、ツインズの[[トニー・オリバ]] (打率 .337・安打164本)が首位打者で3度目の獲得だが途中右ヒザの故障で欠場し最多安打にはなれなかった。またこの年のケガが翌年まで尾を引き、翌1972年はわずか10試合出場したのみであった。オリバはこれが最後のタイトルとなった。同じツインズの[[ハーモン・キルブルー]] (本塁打28本・打点119)も打点王を獲得したがキルブルーもこれが最後のタイトルとなった。通算500本台に乗せたが、1969年には本塁打49本そして前年41本だったのがこの年から本塁打が減っていった。ホワイトソックスのビル・メルトン(本塁打 33本)が本塁打王で[[レジー・ジャクソン]]は1本差の32本で惜しくもタイトルを逃した。ジャクソンは2年前に47本打ったがキルブルーの49本に届かなかった。創設3年目のロイヤルズの[[エイモス・オーティス]](打率.301・打点79・盗塁52)が初の盗塁王となった。オーティスはその後もロイヤルズの主軸として活躍し1980年にはリーグ優勝してワールドシリーズで活躍した。なお優勝したオリオールズから得点王となった[[ドン・ビュフォード]] (得点99)は2年後の1973年に日本の太平洋クラブライオンズに入団している。タイガースの[[ミッキー・ロリッチ]] (25勝・奪三振308)が最多勝・最多奪三振で、3年前の1968年ワールドシリーズ第7戦で[[ボブ・ギブソン]]と投げ合い勝ってシリーズMVPとなったが、ペナントレースではこの1971年のタイトルが唯一となった。またアスレチックスの[[ヴァイダ・ブルー]](防御率1.08)が最優秀防御率となり、この他にリーグMVPとサイ・ヤング賞にも選ばれた。しかしデビュー3年目で大きなタイトルを取ったが、通算209勝して1986年に引退するまでタイトルはこの1971年だけであのみとなった。
 
ナショナルリーグ
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[[ボウイ・キューン]]コミッショナーは、2年前の1969年に「1946年以前にニグロリーグに所属し、すでにメジャーリーグに10年以上試合出場をしていない黒人選手」の中から野球の殿堂入りに相応しい選手を選出するための特別委員会を設置した。そしてこの年にその第1回表彰選手として[[サチェル・ペイジ]]を選出した。
 
サチェル・ペイジは1906年(1904年とする説がある)にアラバマ州モービルの生れ。本名リロイ・ロバート・ペイジ。7歳でモービル駅のポーターとして働き、その時に両手一杯に肩から掛けるカバン(これをサッチェルという)を持って歩き、あまりに沢山のカバンを抱えるので歩く姿が顔は見えずにカバンだけが歩いているように見えるので「サッチェル」とあだ名されたという。ニグロリーグに入ってからの伝説は沢山あった。21連勝した、62イニング無失点に抑えた、或いは105試合登板して104勝した、とか。1934年のシーズンオフにメジャーリーグのカージナルス(その年ワールドシリーズ制覇)と対戦しデイジー・ディーンと投げ合い1-0で勝った。ペイジの前では快速球を誇ったデイジー・ディーンも平凡な投手に見えたという。また[[ロジャース・ホーンスビー]]は5三振に打ち取られた。また1936年のシーズンオフには[[ボブ・フェラー]]にも投げ勝ち、フェラーは「自分より速いのでは」と驚いた。これを見ていたクリーブランド・インディアンスの[[ビル・ベック]]GMが戦後1948年に入団契約した。この時サチェル・ペイジは42歳であった。ペイジが初めて先発登板した1948年8月13日に敵地コミスキーパークに集まった観衆は5万1,013人、1週間後に本拠地ミュニシパルスタジアムに集まった観衆は7万8,382人、どちらもホワイトソックスとの対戦でペイジはどちらも完封勝利であった。1949年にペックがインディアンスを去るとペイジも後を追い、1951年にペックがブラウンズのGMになるとペイジもセントルイス・ブラウウンズに入り3年間投げた。1965年8月25日にアスレチックスのオーナーであるフィンリーの発案で客寄せに入団契約して登板し3イニング無失点で降板した。時に59歳2か月で史上最年長のメジャーリーグ登板記録を作った。メジャーリーグのみの通算では179試合・476イニング投げて28勝31敗、奪三振290の記録だが絶頂期を過ぎた42歳からの記録で、ニグロリーグ時代に正確な記録が無いため、通算2000勝・350完封勝利・ノーヒットノーラン55回を達成したと言われている。[[ジョー・ディマジオ]]が「あんな速いボールは見たことがない」と言い、ペイジをメジャーリーグに導いた[[ビル・ベック]]は「もし最初からメジャーリーグにいたら、全ての投手記録を書き換えていただろう」と言っている。伝説の史上最高の投手であった。
===トニー・コニグリアロの突然の引退===
この年にレッドソックスからエンゼルスに移籍した[[トニー・コニグリアロ]]が極度のスランプから7月に引退した。まだ26歳の若さであった。1964年に19歳でメジャーデビューし打率.290・本塁打24本・打点52を打ってトニー・オリバと新人王を争ったコニグリアロは、早くからその長打力に注目が集まり、翌1965年には本塁打32本でアメリカンリーグの本塁打王となり、まだ20歳での史上最年少のホームランキングとなった。3年目は本塁打28本で、4年目の1967年7月にはオールスターに初出場しシーズン途中で22歳の若さで通算100本に達していた。しかし8月の試合で投球を左目の下に受けて頬骨を粉砕骨折し、しかも左目の網膜も傷ついて失明の恐れがあるとされて、病院に運ばれてその後1年間は治療に専念して戦列を離れた。再起不能との声も上がったが1969年に見事カムバックして本塁打20本・打点82を打った。そして1970年には本塁打36本・打点116を打って自己最高の成績を残した。しかし死球禍の後遺症に苦しめられて視覚障害となり、この年にエンゼルスに移ったことも災いして大スランプとなりシーズン終了を待たずに球界を離れた。その4年後の1975年に一度はレッドソックスに戻って球界復帰を目指したが21試合出場して思うようなバッティングが出来ず再び引退した。そして彼の悲運はそれで終わらなかった。1982年、37歳の時に突然心臓マヒに襲われて昏睡状態に陥り、以降8年間ベッドの上で意識が戻らず、1990年45歳で死去した。早くに通算100本の本塁打を打ち、将来を嘱望されていた選手が僅かたった1球のデッドボールで野球人生が暗転する悲劇の主人公となってしまった。
===その他===
*選手会が労働組合としての地歩を固めていくに従い、選手の年俸が大幅に上昇した。レッドソックスの[[カール・ヤストレムスキー]]が3年契約で約50万ドル、[[ウイリー・メイズ]]が2年契約で約32万ドル、カージナルスの[[ボブ・ギブソン]]が1年契約で15万ドル、オリオールズの[[フランク・ロビンソン]]が1年契約で13万ドル、セネタースのフランク・ハワードが1年契約で12万ドルで、1年10万ドルを超える選手が続出した。