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'''宮内 裕'''(みやうち ひろし、[[1919年]][[4月29日]] - [[1968年]][[2月25日]])は、[[東京都日本]]出身の[[刑事法]][[法学者|学者]]。元[[京都大学]]教授。[[東京都]]出身
 
==経歴==
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* [[1949年]]4月 [[京都大学]]法学部助教授
* [[1959年]]4月 京都大学法学部教授
* [[1967年]]4月 昭和42年度[[文部省]]在外研究員として1年間の予定で[[西ドイツ]]・[[ケルン大学]]に留学
* 1968年2月25日 西ドイツ・[[ケルン]]にて喘息発作のため逝去(享年48)
 
== 人物 ==
旧制松本高校に在学中に[[マルクス主義]]的思想を問題視され退学する。その後、立命館大学の予科に入学し、[[竹田直平]]に師事する。
竹田は宮内を素晴らしい学生であると他の学者に自慢しており<ref>佐伯千仭『宮内教授のこと』法学論叢83巻3号107p</ref>、[[佐伯千仭]]や[[滝川幸辰]]に見出される。
なかでも滝川は宮内を高く評価して直に指導するようになり、[[平場安治]]、滝川春雄とともに滝川門下の三羽烏と称されるようになる<ref>平場安治『故宮内教授の学風と業績』法学論叢83巻3号101p</ref>。
 
戦後は立命館で[[刑法]]講座を担当していたが、師の竹田が教職追放により立命館を去り、また京都大学では佐伯の教職追放などによる教員不足のため刑事法研究者を補充する必要が生じ、滝川門下の平場(刑事訴訟法講座担当)とともに刑事学講座担当として迎えられ京都大学助教授に就任した<ref>[[松尾尊兌]]『滝川事件以後--京都大学法学部再建問題』京都大学大学文書館研究紀要第2号2004年13p</ref>。
 
[[滝川事件#「第2次滝川事件」|滝川事件]]では平場とともに学生側の特別弁護人に就任し、師の滝川と対立した。その際、同じく特別弁護人に就任した[[田畑茂二郎]]は新聞の取材に、宮内と平場が特別弁護人を引き受けた理由として「教え子たちが世間から見離されてその将来に犯罪者のラク印を押されるかどうかの危機に直面しているのであえて教職から立つと意向をもらしていた」と語っている<ref>京都新聞1958年8月24日</ref>。
 
== 学問 ==
京大で[[刑事学]]の講座を担当していたことから、研究対象は刑法から刑事学に移り刑事学の業績が多い。
著書『刑事学』は戦後初の体系的な刑事学教科書とされる<ref>佐伯 108p</ref>。
宮内はマルクス主義法学者であったが<ref>渡辺洋三『宮内君に捧げる』法学セミナー145号81p</ref>、『刑事学』はドイツの正統派刑事学の線上にあるものであり、刑法から刑事学への思想的変遷を図式化したものとして評価された<ref>平場 104p</ref>。
 
[[治安立法]]に対して大きな関心を持っており、治安立法についての多くの著書を残した。
 
== 著書 ==