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===批判===
本作に対してはトランスジェンダーや[[クィア]]の書き手から主に[[性別違和]]や自傷の描写に関して批判が寄せられた<ref name="romano">{{cite news|last=Romano|first=Nick|date=2018-12-06|url=https://ew.com/golden-globes/2018/12/06/netflix-girl-backlash-trans-critics/|title=Trans critics explain the problem with ''Girl'' and its Golden Globes nomination|work=Entertainment Weekly|accessdate=2019-02-02}}</ref>。
 
『イントゥ』誌のマシュー・ロドリゲスは、「本作は残忍で、トランスの身体に固執しており、シスジェンダーの人物が執筆し監督したのだということを痛感させる。トランストラウマポルノであり、私はシスジェンダーの人間として、トランスの人々に本作を観ないよう、そしてシスの人々に本作に引っかからないよう呼びかけている」と述べ、シスジェンダー男性であるポルスターの陰部のショットは「ララの身体に対する気味悪く窃視的な執着を感じさせ、最後まで気味悪さを拭えない」とし、「映画はララを高揚させるよりも、彼女を辱めた上でその辛苦を嘆きたいかのようにみえる」と記した。ロドリゲスはまた、主人公と父親との関係や、彼女が受ける{{仮リンク|マイクロアグレッション|en|Microaggression}}の描写といった映画の一部の要素については「よく練られている」としたものの、彼女が{{仮リンク|二次性徴抑制剤|en|Puberty blocker}}を服用している設定であるにもかかわらずポルスターが起用されていることについて、「抑制剤を服用しているトランス女子は、女性的あるいは中性的な男子のようには見えない――女子のように見えるのだ。ララはエストロゲンの服用を開始しており、胸が発達しないことに不満を覚える。ホルモンが変化をもたらすのは胸だけではないのに、映画は胸と膣がまるで唯一トランス女性を女性たらしめるものかのごとく、それらに固執する」と批判した<ref>{{cite news|last=Rodriguez|first=Matthew|date=2018-10-04|url=https://www.intomore.com/culture/netflixs-girl-is-another-example-of-trans-trauma-porn-and-should-be-avoided-at-all-costs|title=Netflix's 'Girl' Is Another Example of Trans Trauma Porn and Should Be Avoided At All Costs|work=Into|accessdate=2019-02-02}}</ref>。
 
[[英国映画協会]]のウェブサイトでトランス女性批評家キャシー・ブレナンは、「上映時間中、ドンのカメラは憂うべき嘆かわしい好奇心をもってララの股間に執着する」「『''Girl''』のカメラの眼差しはシスの人物のそれである。それはシスの観客が私のような人を見る様にちょうど一致する。彼らは私の顔に向かっては微笑んでも、内心では私の股間には何があるのか思案しているかもしれない」と記した。性器の切断場面については、「本作が描写する資格のない、深刻なトラウマのシーンである。ドンの性別違和描写は性器に固執しており、トランスの少女の内面の心理的な様相について何ひとつ明らかにしない。それを一つの自傷行為に矮小化してしまうことは、映画的蛮行である」と記した<ref>{{cite news|last=Brennan|first=Cathy|date=2018-10-30|url=https://www.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/features/girl-lukas-dhont-trans-representation|title=It's winning awards, but Girl is no victory for trans representation|publisher=British Film Institute|accessdate=2019-02-02}}</ref>。
 
トランス男性の<ref name="piepenburg"/>オリヴァー・ホイットニーは『[[ハリウッド・リポーター]]』に寄せ、本作を「ここ数年で最も危険なトランスのキャラクターにまつわる映画」と形容した。ホイットニーは同作の「トランスの身体に対する不快なまでの執着」を批判し、「ポルスターのフルヌードで表されるララの性器は、『''Girl''』全体を通じ、登場人物自身以上に存在感を持ち、より多くの筋書きの中心となっている」「トランス女性が日常で経験する困難に対する思慮深い洞察となり得たものが、その代わり彼女の身体をトラウマの場として利用し、観客に嫌悪を持って反応することを促している。たびたびララに沈黙を強い感情を押しつけてくるシスジェンダーの登場人物たちと同様、監督もまた彼女の内面の葛藤に興味を示さないのである」と記した。ホイットニーは[[ホルモン補充療法]] (HRT) の描写を本作の最大の問題と位置づけ、「HRTがトランスの人々にさらなる苦痛をもたらすという誤ったメッセージを送っている」「言語道断の無責任な映画作り」であるとした。ホイットニーは「トランスや知識あるアライの人々が映画祭や配給会社で働いたり有力媒体に寄稿したりしていれば、『''Girl''』は賞レースでここまで躍進しなかったはずだ」として、映画業界におけるトランスジェンダーの包摂を呼びかけた<ref>{{cite news|last=Whitney|first=Oliver|date=2018-12-04|url=https://www.hollywoodreporter.com/news/belgiums-oscar-submission-girl-is-a-danger-transgender-community-1166505|title=Belgium's Foreign-Language Oscar Submission, 'Girl,' Is a Danger to the Transgender Community (Guest Column)|work=The Hollywood Reporter|accessdate=2019-02-02}}</ref>。
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本作はベルギーとフランスでも批判を集めた。批判によれば同作は{{仮リンク|性別移行|en|Transitioning (transgender)}}の身体的な、とりわけ性器の側面に執着しており、たとえば[[ブリュッセル]]の支援団体レインボーハウスのカミーユ・ピエールは、性別移行に関しては合併症、生活環境、人権への配慮、未成年であることなどの方が差し迫った問題を生じさせやすいと語った<ref name="verdeau">{{cite news|last=Verdeau|first=Paul|date=2018-10-17|url=https://www.rtbf.be/info/societe/detail_girl-un-film-qui-donne-le-blues-aux-trans?id=10047271|title='Girl', un film qui donne le blues aux trans|work=RTBF|language=fr|accessdate=2019-02-02}}</ref>。研究者エロイーズ・ギュイマン=ファティは、本作の視点は「シス中心的」で「おそろしく男性的」であるとし、「映画の主体であるべきララのキャラクターが客体となってしまった」と述べた<ref name="verdeau"/>。また、主人公は理解ある親を持ち、現代のベルギーに住んでいるという設定にもかかわらず、トランスコミュニティからの支援を模索せず、映画の重点が彼女の苦悩と孤立に置かれている点も、整合性に欠け、ステレオタイプを助長するとして批判された<ref name="verdeau"/><ref name="ghyselings"/><ref>{{cite news|last=Le Corre|first=Maelle|date=2018-10-10|url=https://www.komitid.fr/2018/10/10/girl-une-realisation-virtuose-mais-une-representation-cousue-de-cliches/|title=« Girl », une réalisation virtuose, mais une représentation cousue de clichés|work=Komitid|language=fr|accessdate=2019-02-02}}</ref>。ベルギーの団体ジャンル・プリュリエルのロンデ・ゴッソは、「これはこの国の現実、社会の連携、若者の貢献、私たちがこの11年の間にやってきたことのすべてをなおざりにしています。私たちの存在を押し出すのではなくむしろ見えなくしてしまいます」と語った<ref name="ghyselings"/>。
 
こうした批判を受けて、映画の着想となったノラ・モンスクールは『ハリウッド・リポーター』に寄せ、「『''Girl''』はすべてのトランスジェンダーの経験の表象などではなく、私自身の人生経験の語り直しである」「『''Girl''』は私の物語を、嘘や隠し事なく語っている。ルーカスや主演俳優がシスだからといって、ララのトランスとしての経験は正当ではないという意見は、私を傷つけている」と記した<ref name="monsecour"/>。その後行われたIndieWireのインタビューでもモンスクールは「傷ついた」と語り、「私の物語はシスの監督の妄想ではありません。ララの物語は私の物語です」と述べた。またモンスクールは、映画終盤の自傷描写は「私自身が経験した、人を支配する自殺念慮やダークな考えのメタファー」であり、それを見せることは「不可欠」であったと語り、「あのシーンはトランスの若者に身体の部位を自分で切断することを促すものと解釈されるべきではありません。それはメッセージではありません。メッセージは、こうしたことはダークな考えの一つの結果であり、私たちが直面する困難の結果なのだということを見せることです」と述べた<ref>{{cite news|last=Dry|first=Jude|date=2018-12-19|url=https://www.indiewire.com/2018/12/girl-netflix-transgender-ballerina-nora-monsecour-interview-1202028761/|title=Netflix's 'Girl' Slammed by Trans Critics, but the Film’s Subject Says They're Wrong|work=IndieWire|accessdate=2019-02-02}}</ref>。また『[[ニューヨーク・タイムズ]]』とのインタビューでモンスクールは「人々が『''Girl''』を形容するのに使っている言葉は私の心に迫りました。彼らが批判しているシーンは私が性別移行中に頭の中にあったシーンなのですから。ルーカスのこうしたことの描写に対する批判は、自殺念慮や身体へのこだわりがあったのは私だけなのだろうかと考えさせられてしまいます」と述べた<ref name="piepenburg"/>。
 
ドンは批判に対して、「私たちが見せたかったのは、非常に二元論的であるバレエ界における若いトランス女性、そして彼女のそれに対する葛藤です」「誰にも好れるものなどありません。私は本当にトランスの監督がトランスのストーリーを監督するのを見てみたいし、トランスの俳優がトランスの役やどんな役でも演じるのを見てみたいと思っている人間です。でも排除という道具で包摂を求めるのはやめましょう。誰もが参加できる場を開いて包摂を求めようではありませんか」と述べた<ref name="ennis"/>。
 
トランス向け芸能仲介業者の創業者アン・トーマスは『[[アドボケート (雑誌)|アドボケート]]』で本作を擁護し、シス男性であるポルスターの起用は本作企画当時のヨーロッパにおいて若いトランスの俳優が少なかったことに起因するものであり、また映画の描写は正確であると記した<ref name="thomas"/>。ノンバイナリのダンサー、{{仮リンク|チェイス・ジョンジー|en|Chase Johnsey}}は、主人公の身体性に置かれた映画の重点は自身のバレエダンサーとしての経験と合致するものであり、「バレエは身体中心のアートなので、トランスやジェンダーフルイドの人がバレエ界で得る困難は自身の身体にまつわるものになりがちです」と語った<ref name="cappelle">{{cite news|last=Cappelle|first=Laura|date=2019-01-11|url=https://www.ft.com/content/cf47f98a-1271-11e9-a168-d45595ad076d|title=Girl – why a film about a transgender ballerina has sparked controversy|work=Financial Times|accessdate=2019-02-02}}</ref>。トランスジェンダーの演出家・パフォーマー、{{仮リンク|フィア・メナール|en|Phia Ménard}}も、映画は自身の経験と合致するものであり、また自傷シーンは自殺的衝動と比較可能だと語った<ref name="cappelle"/>。