「立憲民政党」の版間の差分

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[[1928年]](昭和3年)[[2月20日]]に行われた[[第16回衆議院議員総選挙]]では、田中内閣の[[内務大臣 (日本)|内相]]・[[鈴木喜三郎]]から、「民政党が掲げる議会中心主義は[[大日本帝国憲法|憲法]]違反である」との誹謗と[[選挙干渉]]を受けるも政友会にわずか1議席差にまで迫る216議席を獲得して政府を追い込んだ<ref>『昭和の政党』157頁、417頁。</ref>。それに対して与党・政友会は床次ら旧政友本党出身者に対して復党工作を行って床次ら30名余りの離党者を出す事に成功する。また、濱口に代わって[[大隈信常]]を新総裁に擁立しようとした[[小寺謙吉]]が除名される騒ぎも起きた。
 
だが、同年[[6月4日]]に発生した[[張作霖爆殺事件]](いわゆる[[満州某重大事件]])のために田中内閣が[[内閣総辞職]]に至ると、[[元老]][[西園寺公望]](元首相・元政友会総裁)は現状の政友会の政策の是非宜しきを得問うていないことが政権崩壊の原因となった考えて、[[憲政の常道|野党第一党の民政党に政権を交代させ]]た上で国民の信を問う方針を固めると、西園寺は昭和天皇に濱口雄幸を次期首相として推薦した。
 
こうして[[1929年]](昭和4年)[[7月2日]]に田中内閣は総辞職し濱口内閣が成立する。濱口は[[金解禁]]を断行した上で、「綱紀粛正」と「[[軍縮]]実現」を掲げ[[1930年]](昭和5年)に[[第17回衆議院議員総選挙]]を行った。その結果、過半数を占める絶対多数の273議席を獲得した<ref>『昭和の政党』188頁、417頁。</ref>。