「ラングレー (CV-1)」の版間の差分

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==水上機母艦==
[[Image:USS Langley (AV-3).jpg|thumb|left|200px|水上機母艦 ラングレー(AV-3)]]
[[File:USS Langley 1938.jpg|thumb|left|200px|甲板一杯に水上機を搭載したラングレー]]
[[File:USS Langley (AV-3) is torpedoed south of Java on 27 February 1942.jpg|thumb|left|200px|日本機の爆撃下にあるラングレー。1942年2月27日]]
[[File:USS Langley (AV-3) being abandoned south of Java on 27 February 1942 (NH 92472).jpg|thumb|left|200px|ラングレーの最後。1942年2月27日]]
1936年10月25日にラングレーはカリフォルニア州の[[メア・アイランド海軍工廠]]でオーバーホール及び水上機母艦への改修が行われた。ラングレーの空母としての経歴は終了したが、艦で訓練されたパイロットは続く二隻の空母、[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]] (''USS Lexington, CV-2'') および[[サラトガ (CV-3)|サラトガ]] (''USS Saratoga, CV-3'') で重要な役割を果たした。
 
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[[南方作戦]]での日本軍の進撃は留まる事を知らず、やがて[[ジャワ島]]に対しても空襲が行われるようになった。連合軍は[[ホーカー ハリケーン]]や[[F2A (航空機)|ブリュスター バッファロー]]で対抗したが、日本機の敵ではなかった。連合軍は更なる戦闘機を欲し、[[インド]]に輸送途中の[[P-40 (航空機)|カーチス P-40]]を引き抜くことにした<ref>永井、木俣, 117ページ</ref>。2月22日、ラングレーは元飛行甲板上に32機のカーチス P-40 を乗せ、セイロン行きの MS-5 船団と共にオーストラリアの[[フリーマントル (西オーストラリア州)|フリーマントル]]を出航した。その翌日、{{仮リンク|コンラッド・ヘルフリッヒ|en|Conrad Emil Lambert Helfrich}}中将<ref>1945年9月2日の[[降伏文書|降伏文書調印式]]におけるオランダ代表</ref>は P-40 を大至急輸送するよう命じ、ラングレーは、同じくP-40 を輸送していた貨物船と共に、護衛なしでジャワ島南岸部の{{仮リンク|チラチャップ|en|Cilacap Regency}}に向かったが、貨物船は次第にラングレーから離されていった<ref>永井、木俣, 119ページ</ref>。
 
5日後の2月27日の早朝、ラングレーは出迎えに来た[[駆逐艦]][[:en:USS Whipple (DD-217)|ホイップル]] (''USS Whipple, DD-217'') および[[エドサル (駆逐艦)|エドサル]] (''USS Edsall, DD-219'') と合流した。同日、[[バリ島]]265度368海里前後地点で日本軍の索敵機が「ラングレー」を発見<ref name="sat185">一式陸攻戦史すでに185ページ</ref>。[[バリ島]]に進出していた[[高雄海軍航空隊|高雄航空隊]]の[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]が艦船攻撃のためバリ島を離陸した。11時40分、ラングレー、ホイップル、エドサルの3隻はバリ島西方368海里の地点17機(16機<ref name="a">戦史叢書26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、476ページ</ref>で一式陸攻9機の)が攻撃を受ける。3隻は爆撃を受けると同時各方に分離して回避運動を始めかった<ref name="a">一式陸攻戦史叢書26』476、184-186ページ</ref>。攻撃第一波と第二波は失敗に終わったが、三度目の攻撃で魚雷や対艦用爆弾が命中する。この時、攻撃隊は陸上攻撃用の爆弾到着か抱えていなかったが<ref name="b">『戦史叢書26』477ページ</ref>ためそれでも250キロ陸攻は陸用の250kg爆弾3発60キロ60kg爆弾3発が命中を搭載ていた<ref name="asat185">『戦史叢書26』476ページ</ref>ラングレーは大破し。また操舵零戦30機困難となる。P-40 も爆弾命中護衛より次々炎上しついた<ref name="bsat185">『戦史叢書26』477ページ</ref>、折からの強風で消火が困難となった<ref>永井、木俣, 121ページ</ref>。機関室も浸水し、ラングレー攻撃今の状況で様子チラチャップ湾の入江を通行することができないと見られた。ホイップルかエドサルのどちらかがラングレーの被爆を暗号を使わずに発信。これを受信した攻撃隊は敵戦闘機指揮官足立次郎大尉来襲を警戒して、足早回想戦場を去っていよれば以下のようであった<ref name="b">戦史叢書26』477ページ</ref>。巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進撃隊より先に発進した[[零式艦上闘機|零戦]]の一隊は炎上中のラングレーを発見して[[機銃掃射]]を加えた<ref name="b">『戦史叢書26』476-477ページ</ref>。
:まず楠畑中隊が爆撃を行なったが命中せず。続いて足立中隊が2度のやり直しの後に爆撃し、250キロ爆弾3発と60キロ爆弾3発が「ラングレー」命中。甲板上の飛行機などが炎上した。また、先行していた戦闘機隊も帰路「ラングレー」を銃撃した。
 
「ラングレー」には5発の命中弾があり、飛行機が炎上<ref name="danfs">[https://www.history.navy.mil/research/histories/ship-histories/danfs/l/langley-i.html Dictionary of American Naval Fighting Ships]</ref>。折からの強風で消火が困難となった<ref>永井、木俣, 121ページ</ref>。また、操舵装置も破損し、船体は10度傾斜した<ref name="danfs"/>。機関室も浸水し、ラングレーの今の状況ではチラチャップ湾の入江を通行することができないと見られた。
ラングレーはもはや如何ともし難い状況になり、13時32分に至って艦の放棄が命じられた。ラングレーを処分するためホイップルが4インチ砲弾9発及び2本の[[魚雷]]を発射し、ラングレーはチラチャップの南120キロの水域で沈没した。ラングレーの乗組員はホイップルとエドサルに救助され、それから給油艦[[ペコス (AO-6)|ペコス]] (''USS Pecos, AO–6'') に移されたが、3月1日にペコスも[[南雲忠一]]中将率いる[[機動部隊]]の空襲により撃沈されたため、ラングレー乗組員も多数死亡した。
 
ラングレーはもはや如何ともし難い状況になり、13時32分に至って艦の放棄が命じられた。ラングレーを処分するためホイップルが4インチ砲弾9発及び2本の[[魚雷]]を発射し、ラングレーはチラチャップの南120キロの水域で沈没した。死者は16名であった<ref name="danfs"/>。ラングレーの乗組員はホイップルとエドサルに救助され、それから給油艦[[ペコス (AO-6)|ペコス]] (''USS Pecos, AO–6'') に移されたが、3月1日にペコスも[[南雲忠一]]中将率いる[[機動部隊]]の空襲により撃沈されたため、ラングレー乗組員も多数死亡した。
 
一方、ラングレーを攻撃した高雄航空隊では、攻撃隊指揮官がラングレーの撃沈を報告したものの、上層部はこの報告を採用せず、「空母一隻撃破」という評価に留めた<ref name="b">『戦史叢書26』477ページ</ref>。また、先の電文を傍受していた日本軍は攻撃したのがラングレーであると推測したものの、1月8日に[[伊号第二十五潜水艦|伊25]]が[[ジョンストン島]]近海で「撃沈」したのがラングレーであると[[大本営発表]]で報じていた手前、本当のラングレーは大本営発表では「特設空母」と報じられた<ref>瀬名, 138、139ページ</ref>。