「吉川英治」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
1892年(明治25年)8月11日(戸籍面は13日)、[[神奈川県]][[久良岐郡]][[中村 (神奈川県久良岐郡)|中村]]根岸(現在の[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]山元町2丁目18番地付近)<ref>「吉川英治と明治の横浜 : 自伝小説『忘れ残りの記』を解剖する」(横浜近代文学研究会編)は、山元町商店街の「梅ノ湯」という銭湯の辺りとする。現在ではセブンイレブン正面のマンション「ランドシティ横濱」</ref>に、旧[[小田原藩|小田原]]藩士・吉川直広、イクの次男として生れた。自筆年譜によると出生地は中村根岸となっている。父・直広は県庁勤務の後小田原に戻り[[箱根]]山麓で[[牧畜業]]を営みさらに横浜へ移って牧場を拓く。イクとは再婚で、先妻との間に兄正広がいた。英治が生まれた当時、直広は牧場経営に失敗し、[[寺子屋]]のような塾を開いていた。その後貿易の仲買人のようなことを始め、[[高瀬理三郎]]に見出されて横浜桟橋合資会社を設立。一時期安定するが、直広が高瀬と対立し、裁判を起こし敗訴すると刑務所に入れられ、出所後は生活が荒れ、家運が急激に衰えていく。
 
山内尋常高等小学校に入学。当時[[騎手]]の[[馬屋]]に近く、将来は騎手になることを考えていた。また10歳の頃から雑誌に投稿をするようになり、[[時事新報社]]の『[[少年 (雑誌)|少年]]』誌に作文が入選した。家運が衰えたのはこの頃で、異母兄と父との確執もあり、小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。18歳の時、年齢を偽って横浜[[ドック]]の船具工になったが、ドックで作業中船底に墜落、重傷を負う。
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