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'''黒田 長舒'''(くろだ ながのぶ、[[明和]]2年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1765年]][[11月10日]]) - [[文化 (元号)|文化]]4年[[10月16日 (旧暦)|10月16日]]([[1807年]][[11月15日]]))は、[[筑前国|筑前]][[秋月藩]]の第8代藩主。
 
== 生涯 ==
[[日向国|日向]][[高鍋藩]]主・[[秋月種茂]]の次男。母は越前[[松平明矩]]の娘。正室は奥平[[松平忠啓]]の娘・大円院(美須子)、継室は[[山内豊雍]]の娘・慈明院(采子)。側室に森寺氏。子に[[黒田長媛]](長男)、[[黒田長韶]](次男)、娘([[唐橋在経]]室)。官位は従五位下、[[甲斐国|甲斐]]守。幼名は幸三郎。[[仮名 (通称)|通称]]は修理。
 
父・種茂の母が秋月藩の第4代藩主・[[黒田長貞]]の正室腹の娘、春姫であった。この縁から[[天明]]4年([[1784年]])に第7代藩主・[[黒田長堅|長堅]]が嗣子無くして早世し、秋月藩が断絶の危機を迎えたとき、その血筋をもって天明5年([[1785年]])3月17日、跡を継ぐこととなった。こうして、[[秋月種実]]が[[天正]]15年([[1587年]])に秋月を離れて以来、約200年ぶりに[[秋月氏]]一族出身者が秋月に復活することとなった。同年4月1日、将軍[[徳川家治]]に[[御目見]]した。天明6年12月18日、従五位下甲斐守に叙任する。
 
の[[福岡藩]]主・[[黒田斉隆]]・[[黒田斉清|斉清]]親子はともに幼くして藩主を継いだため、長舒はその補佐役となり、[[長崎港|長崎]]警備なども務めている。文化4年(1807年)10月16日、43歳で死去し、跡を次男[[黒田長韶|長韶]]が継いだが、その死は文化5年([[1808年]])2月4日まで隠されていたと言われている。法号は朝陽院大雄向水。墓所は[[朝倉市]]秋月の[[古心寺]]。
 
[[亀井南冥]]より教えを受ける。
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