「黒田斉隆」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 黒田 斉隆
| 画像 = KurodaNaritaka.jpg
| 画像サイズ = 220px
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[[天明]]2年([[1782年]])12月19日、福岡藩主・[[黒田治高]]の[[末期養子]]として5歳で福岡藩黒田家の家督を相続する。のちに実兄の家斉から[[偏諱]]を授かり、[[諱]]を'''斉隆'''とした。
 
父の[[徳川治済|治済]]は将軍実父として、幕府内において隠然たる大きな影響力を持っており、先代の[[黒田治高|治高]]が死去前に養子として指名していたことや弟の先々代[[黒田治之|治之]]との繋がりから両家の重臣と話合いを持ち、息子の三男、雅之助(後の斉隆)を幼いまま、福岡藩黒田の養子に入れた。斉隆は若くして死去したためこともあって正室はいないが、[[側室]]の真妙院との間に、第10代藩主となった[[黒田斉清|斉清]]がい。幼い頃より文学に嗜み、[[儒学]]を好んだ。側室・駒子(真妙院)の養父、福岡藩士で儒学者の渡辺忠蔵は藩が警護していた[[長崎市|長崎]]にて[[平賀源内]]と問答をしている記録が残る。また、側室の駒子は、先々代、治之の正室、亀姫[[瑤津院]]の計らいにより、藩主生母として、新間の方(しんまのかた)と呼ばれた。
 
天明3年([[1783年]])、福岡藩領内に重臣たちの献策もあり、藩儒・[[竹田定良]]と、儒医・[[亀井南冥]]に、[[藩校]]を創建することを命じる。天明4年([[1784年]])、定良が[[修猷館]](東学問稽古所)(現在の[[福岡県立修猷館高等学校]])、南冥が[[甘棠館]](西学問稽古所)を開館している。
天明4年([[1784年]])、定良が[[修猷館]](東学問稽古所)(現在の[[福岡県立修猷館高等学校]])、南冥が[[甘棠館]](西学問稽古所)を開館している。
 
寛政2年([[1790年]])10月15日、13歳で従四位下侍従・筑前守に叙任する。
 
寛政5年、領地福岡に入る。翌年、領内を巡見し、領民の暮らしぶりを見て周り、顕彰をした
翌年、領内を巡見し、領民の暮らしぶりを見て周り、顕彰をした。
 
寛政7年(1795年)、斉隆は聡明で博識な藩主として家老たちからも期待されたが、寛政7年(1795年)に病に伏し、6月23日に[[福岡城]]にて死去した。[[享年]]19。幕府には同年8月24日死去と届け出た。跡を嫡男の松次郎、のちの[[黒田斉清|斉清]]が継いだ。
 
斉隆の治世中には、黒田家の先祖を祀る事跡があった。天明3年(1783年)に第3代藩主・[[黒田光之]]に廃された[[黒田綱之]]を祀る[[幹亮権現社]]を創立し、同年にはまた初代長政を祀る[[黒崎大明神]]を再興した。また、藩祖・[[黒田孝高]]の父、[[黒田職隆]]の墓所が[[播磨国|播磨]][[姫路市|姫路]]にて発見され、二百回忌の法要、および墓所の築造が当地にて行われた。
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{{DEFAULTSORT:くろた なりたか}}
[[Category:福岡藩主|なりたか]]
[[Category:福岡黒田|なりたか]]
[[Category:一橋徳川家]]
[[Category:御三卿家中の人物]]