「寛永寺」の版間の差分

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*'''黒門''' - かつての総門。現在の上野公園入口から噴水広場へ至る広い道の途中、清水観音堂の下あたりにあったもので、簡素な冠木門であった。幕末の上野戦争には焼け残ったが、明治40年(1907年)、東京都荒川区の[[円通寺 (荒川区)|円通寺]]に移築され、同所に現存する。彰義隊戦士の遺骸が円通寺に葬られた縁で移築されたもので、門には上野戦争の時の弾痕が多数残る。なお、現在、清水観音堂近くにある黒門は復元されたものである。
*'''文殊楼''' - 入母屋造重層の門。寛永4年(1627年)建立の仁王門が貞享2年(1688年)焼失した後、元禄10年(1697年)に建てられたが、上野戦争で焼失した。
*'''法華堂・常行堂''' - 入母屋造の同形の仏堂2棟を左右に並べ、その間を屋根付きの高廊下で繋いだもので、参詣者は高廊下の下をくぐって根本中堂へ向かった。寛永4年(1627年)、紀州藩主の[[徳川頼宣]]と尾張藩主の[[徳川義直]]の寄進で建立されたもの。
*'''根本中堂''' - 他の諸堂より大幅に遅れて[[元禄]]11年([[1698年]])落慶。現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模のものであった。中堂前には方形に回廊をめぐらし、正面に唐門を設けていた。
*'''本坊''' - 現在の東京国立博物館の敷地にあった。前述のとおり、正門のみが上野戦争で焼け残り、しばらくは博物館の正門として使用されていたが、その後博物館の東の[[輪王寺 (台東区)|輪王寺]]に移築されている。博物館本館裏の日本庭園は寛永寺本坊庭園の名残りである。