「玉の海正洋」の版間の差分

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逝去当時、玉の海の死に顔を見た人々は、口を揃えて「無念の形相だった」と語っていた。広い肩幅が最大の武器で相手に上手を与えなかった玉の海の納棺された姿を見てた付け人の一人は「横綱、窮屈そうだな…」と言い、その場にいた人々は涙が止まらなかったという。
 
=== エピソード ===
 
* 歴代横綱の中で唯一、初土俵以来皆勤(休場なし)であった。
*父は韓国人で玉の海の民族名はユン・イギ<ref name="park">[[朴一]] 『僕たちのヒーローはみんな在日だった』 講談社 2011年 43頁。ISBN 9784062168854。</ref>。生前、本人はこのことを公表していなかったが2006年に韓国で出版された「ヤクザと横綱」という書籍で彼の生い立ちが明かされた{{Efn2|生前、会ったことのある[[張本勲]]には自分が在日だと語っていたという<ref>「天才打者の壮絶な被曝体験([[張本勲]] 男)」 [[小熊英二]](編)、高賛侑(編)、高秀美(編)『在日二世の記憶』。ISBN 9784087208573。</ref>。}}。父は1929年に来日し、その後日本人女性と結婚、4人の子供に恵まれた。その長男が玉の海だったが彼が力士としての番付を上げていくさなか、次男は暴力団員となったのち殺人罪で逮捕されたため出自や家族については隠されていった<ref name="park" />。
* 体重・上背はそれほどなかったが、反り腰の強さと右四つの型の完成度、「後の先」の立合いは「[[双葉山定次]]の再来」と言われ、投げ技も豪快だった<ref>『相撲』(別冊師走号)74ページから76ページ。</ref>。さらに寄りながら吊り上げる[[吊り出し]]の技術は相撲史上最高との評価もあった。欠点は脇の甘さで、大鵬・北の富士以外に[[長谷川勝敏]]・[[栃東知頼]]といった左四つで前捌きの上手い相手には差し負けることが多かったが、横綱昇進後は左四つでも[[廻し]]を取れば下位に負けることはほとんど無くなった。高くまっすぐ上がる四股の美しさにも定評があった。
* 片男波は玉の海に対しては特に厳しく指導したとされ、例として大関時代に門限を破った罰として殴ったという事実が伝えられている(師匠の片男波は最高位が関脇であった)。後援者から「もう大関だから」とこれについて指摘されても「将来は横綱になる逸材だからこそ、緩めることはできない」と答えたという。この指導方法は、玉の海の強力な壁となった大鵬の育てられ方(大関になっても容赦なく[[佐賀ノ花勝巳|師匠]]から殴られたという)と同質のものであった。
* [[玉ノ海梅吉|玉の海梅吉]]は大相撲中継で玉の海を褒めることがしばしばあり、放言とされかねない発言さえも笑っていた。ある場所のNHK中継で[[北出清五郎]]が「三人の玉の海の中で自分が一番偉い」と玉の海が尊大ですらある発言をしていたことを明かした際に「自分は元関脇だからねえ」と素直に喜んでいたという。その素材が早くから認められていた証拠と言える。
* 大関に昇進してから1967年頃までは9勝6敗の成績が多かったため「クンロク大関」と呼ばれていた。ある日、玉の海は北の富士に対して「北の富士関、ぼく、最近、"'''カンロク大関'''"って言われています」と「クンロク大関」と呼ばれていることに気付いていない様子であった<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P161-162。</ref>。
* [[龍虎勢朋]]と並んで[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]を着用した力士のはしりとも言われる。ただし、玉の海はファッション目的ではなく、独自の調整法であるランニング{{Efn2|「腰が軽くなる」と言われ、角界ではタブー視されていた。}}のために着ていた。大関昇進後、玉の海は通常より1時間半早く起きてランニングを行うようになった。ランニングは師匠の指示によって取り入れたという相撲専門文献の記述もあり、このランニングの習慣が一門の後輩である[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]や[[輪島大士|輪島]]も取り入れていたことで知られる<ref name="tamanoumi33" />。1971年1月場所千秋楽の深夜、怪我で途中休場していた若き日の[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]は飲酒して帰宅途中、ジャージ姿でランニング中の玉の海を目撃して我に返り、己の不甲斐なさを反省したという。この日、玉の海は14戦全勝で迎えた大鵬との本割・決定戦で連敗し、全勝優勝どころか優勝そのものまで逃したばかりだった。
* 横綱の現役死は1938年12月の[[玉錦三右エ門]]以来だが、玉錦は二所ノ関一門の開祖であり、奇しくも玉の海は孫弟子に当たる。死因も同じ虫垂炎の悪化であった。
* 27歳の青年横綱である玉の海が急逝するとは当然ながら誰も夢にも思わなかったことで、片男波部屋には玉の海の手形が1枚も保管されていなかった。玉の海の死後、師匠の玉乃海太三郎が後援会に頼んで、かつて贈呈したものを返してもらわざるを得なかったほどであった。