「藤岡弘、」の版間の差分
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[[1946年]]([[昭和]]21年)[[2月19日]]、[[日本の警察官|警察官]]で全国的にも知られた[[柔道]]家、家伝の流派の[[古武道]]である「藤岡流」を継承する武道家でもあった父と、[[茶道]]や[[華道]]、[[琴]]の師範だった母との間に生まれる。当時の生家は[[駐在所]]で、近所には[[四国八十八箇所|四国八十八箇所霊場]]の第四十四番[[札所]]である[[大寶寺|菅生山 大覚院 大寶寺]]があり、母はよくお遍路さんに「お接待」を施してもてなしていたのが印象的だったとしている。生まれたばかりの頃は病弱で、[[肺炎]]を患った時には「もうダメだろう」と医師から告げられる中、「[[遺影]]に…」と写真が撮影された程だった。この時は母の献身的な看病で一命を取り留めるが、小学校に上がってからも、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な線の細い子供だった。6歳の頃から病弱を心配した父から武道の手ほどきを受け、肉体と精神の修行・鍛練の中、病弱を克服する。少年時代から[[滝行]]も経験している <ref name ="OCN page1">{{Cite web |url=http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people01.html|title=OGな人びとVol.39「藤岡弘、」1ページ|publisher=OCN TODAY |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131001011319/http://journal.ocn.ne.jp/people/vol39/people01.html|archivedate=2013-10-01|accessdate=2014-01-21}}</ref>。
小学校
[[1957年]](昭和32年)、小学校6年の時に父が突如[[失踪]]。その日から家族の暮らしは貧しさを極め、3度の食事にも事欠き、学校に給食費すら納められない状況に陥る。藤岡はこの頃から[[アルバイト]]で生活を支える一方、惨めな生活を誰にも相談できず、後年まで父を許すことができなかったと語っている<ref group="注釈">その後、[[1980年]](昭和55年)頃に父から突然電話が入る。父は静かな口調で「お前には財産も何も残してやれなかったが、地位や名誉という財産は他人に奪われることはあっても、『生き方』という財産は決して奪われない。だから、お前も誇りを持って生きなさい」と告げられた。しかし、突然のことでその言葉を理解しようとは思わなかった。その数日後、父の死を知らされて父の知人たちから失踪の真相を聞かされるうち、父に対する不信感は氷解したという。その真相については「差し障りがある」として明かしていないが、幼少時から父によく聞かされた「この国のために生きたい」との思いに、決して恥じないことだったとしている。</ref><ref>{{Cite book |和書|author=[[週刊現代|週刊現代編集部]]|year=2002|title=おやじ、ありがとう|page=134-135|publisher=[[講談社]] |isbn=9784063389586}}</ref>。
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