「ヘロドトス」の版間の差分

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* [[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]で[[10世紀]]頃に成立した[[スーダ辞典]]におけるヘロドトスと関連する事項への言及。
* [[古典古代]]の作家の断片的な言及。
* ヘロドトス自身の叙述から拾い集められる記述情報
 
スーダによればヘロドトスは[[小アジア]]南部の[[カリア]]地方にある都市[[ハリカルナッソス]](現:[[トルコ]]領[[ボドルム]])の出身であり、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという<ref name="松平解説1972p371"/>。兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人[[パニュアッシス]]がいた<ref name="松平解説1972p371"/>。ハリカルナッソスは前900年頃に[[ペロポネソス半島]]にある[[アルゴリス]]地方の都市[[トロイゼン]]から移民した[[ドーリア人|ドーリス]]系ギリシア人の植民市であった<ref name="松平解説1972p372">[[#ヘロドトス 1972-2|松平 解説]], p. 372</ref><ref name="桜井2006p12"/>。しかし前5世紀にはハリカルナッソスの文化は[[イオニア人|イオニア]]化しており、ヘロドトス自身も[[古代ギリシア語]]のイオニア方言を話したと推定されている<ref name="桜井2006p12"/><ref name="松平解説1972p372"/>{{refnest|group="注釈"|ハリカルナッソスはイオニアに属する都市ではないが、ヘロドトスはしばしばイオニア人であると見られがちである。実際ヘロドトスの思考や知的背景がイオニアに多くを負っているのは間違いないにもかかわらず、彼の姿勢は極めて親アテナイ的であり、イオニアに対する非難を躊躇していない。『歴史』の叙述におけるヘロドトスのイオニア人に対する態度はある種侮蔑的であり、「イオニア人という名前は偉大な名声を持つ名前ではない」とも書いている。J.B.ベリーは「かれがイオニア作家として叙述したといわれたならば、かれは大いに憤慨したであろう。かれは、イオニアとイオニア的な関心から離れようと非常に苦心した。」と述べる<ref name="ベリー1966pp60_61">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], pp. 60-61</ref>。}}。また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの家も同様であった。ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスはカリア系の名前であるが<ref name="桜井2006p12"/><ref name="松平解説1972p372"/>、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である<ref name="松平解説1972p372"/>。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である<ref name="松平解説1972p372"/>。ヘロドトスの名前はギリシア語で「[[ヘーラー|ヘラ]]女神の贈り物」と言う意味である。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す<ref name="桜井2006p12"/>。