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[[File:Grand People's Study House 08.JPG|thumb|220px|[[朝鮮民主主義人民共和国]]の首都[[平壌]]の[[人民大学習堂]]に掲げられた[[金日成]]と金正日の肖像画。]]
[[ファイル:Chosen-gakko classroom.jpg|thumb|220px|[[日本]]の[[朝鮮学校]]教室内に掲げられる金日成国家主席と金正日の肖像。]]
'''金 正日'''(キム・ジョンイル、{{Lang-ko|김정일}}、[[英語]]:Kim Jong-il、[[1941年]][[2月16日]] - [[2011年]][[12月17日]]<ref name="nikkei20111219">{{cite news | url=http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819587E3E3E2E09B8DE3EBE3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2 | title=金正日総書記が死去、69歳 北朝鮮の混乱必至(日本経済新聞) |date=2011-12-19|accssesdate=2011-12-19}}</ref><ref>[http://www.sankei.com/smp/premium/news/141217/prm1412170006-s.html 産経]</ref>)は、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[政治家]]、[[軍人]]、独裁者。北朝鮮を建国した[[金日成]]の[[長男]]であり、同国の最高指導者の地位を父より継承(世襲)した。以後、死去するまで[[朝鮮労働党中央委員会総書記]]、[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会]]委員長、[[朝鮮人民軍最高司令官]]、朝鮮労働党[[朝鮮労働党中央軍事委員会|中央軍事委員会]]委員長、朝鮮労働党中央委員会[[朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員会|政治局常務委員]]を務めた。
 
[[称号]]は朝鮮民主主義人民共和国[[元帥]]、[[朝鮮民主主義人民共和国英雄]](三回受章しており「三重英雄」と称される<ref>[[1975年]][[2月24日]]、[[1977年]][[2月]]、[[1982年]][[2月15日]]の3回。なお、1度目の授与は当初2月15日に予定されていたが、その時点では辞退している。</ref>)。死後、朝鮮民主主義人民共和国[[大元帥]]の称号を追贈さた。
 
== 生涯 ==
 
=== 権力の掌握 ===
[[1972年]]10月、党第5期中央委員会第5回総会で中央委員に選出さ、[[1973年]]9月の党第5期中央委員会第7回総会で党中央委員会書記(党組織、宣伝扇動担当)に選出さた。さらに、[[1974年]][[2月13日]]の朝鮮労働党第5期中央委員会第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局委員)に選出さ、翌[[2月14日]]には、金日成の後継者として「推戴」さた<ref>既に[[1972年]][[12月22日]]の党第5期中央委員会第6回総会において金正日を「唯一後継者」とする秘密決定がおこなわれている。</ref>。同時期、北朝鮮版[[文化大革命]]<ref>「金正恩氏の後見人、張成沢氏は冷血な忠臣 2万5千人粛清の総責任者!」産経ニュース 2012年1月14日</ref>とも呼ばれる[[三大革命赤旗獲得運動]]を提唱して権力の確立をしていった。
 
ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された<ref>金元祚『凍土の共和国』p344。「党中央」の表記が最初に登場したのは『[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]』1974年2月14日付社説。</ref>。[[1980年]]には「党中央の明かり」という歌曲が作られ<ref>http://www.naenara.com.kp/ko/art/artist/index.php?4</ref>、金正日崇拝への道ならしがおこなわれた。同年[[10月10日]]の第6回党大会および党第6期中央委員会第1回総会で[[朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員会|党中央委員会政治局常務委員]]、中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、後継者としての地位を確固なものとした。このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年2月に[[最高人民会議]]代議員に選出される<ref>以来、死去するまで最高人民会議代議員を務めた。</ref>。後継者内定後初の外遊だった1983年6月の訪中から帰国した際に[[中華人民共和国]]の[[改革開放]]を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判した金正日に対して中国の[[鄧小平]]は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄したことに焦った父・金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になった<ref>{{cite news |title=【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒|publisher=[[産経新聞]] |date=2015-10-23 |url=http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n1.html|accessdate=2016-10-18}}</ref>。
 
=== 最高指導者として ===
[[1994年]][[7月8日]]、金日成主席が死去。金正日は国家元首の地位を正式に継承はしなかったものの、この日より事実上の最高指導者として統治を開始した。[[1997年]][[10月8日]]、金日成の死によって空席となっていた[[朝鮮労働党中央委員会総書記]]に「推戴」さ、[[1998年]]9月の[[最高人民会議]]第10期第1回会議において改めて[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会|国防委員会]]委員長に選出さた。同会議において、[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]は「国家の最高職責」とされた。経済政策の失敗と無駄遣いで[[苦難の行軍]]が起きたため、1997年から2000年にかけて、金正日は最高指導者の地位をより確立させるべくかつて三大革命赤旗獲得運動を共に進めた義理の弟の[[張成沢]]を使って古参幹部とその側近と彼らの親族の大規模な[[粛清]]([[深化組事件]])を行った。
 
[[File:Vladimir Putin with Kim Jong-Il-2.jpg|thumb|280px|[[ロシア]]の[[ウラジーミル・プーチン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]と会談する金正日[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]([[2000年]][[7月19日]])。]]
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