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{{政治家
[[画像:Wladyslaw Gomulka na trybunie.jpg|thumb|200px|ゴムウカ]]
|人名 = ヴワディスワフ・ゴムウカ
'''ヴワディスワフ・ゴムウカ'''('''ゴムルカ'''、Władysław Gomułka [[1905年]][[2月6日]] - [[1982年]][[9月1日]])は、[[ポーランド]]の[[政治家]]。[[1956年]]から[[1970年]]まで[[ポーランド統一労働者党]]([[ポーランド語]]: Polska Zjednoczona Partia Robotnicza、'''PZPR''')[[第一書記]]を務めた。
|各国語表記 = Władysław Gomułka
|画像 = Poseł Władysław Gomułka V kadencja.jpg
|画像説明 = 1969年
|国略称 = {{POL1952}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1905|2|6|no}}
|出生地 = {{AUT1867}}<br />クロッセン(現:[[ポトカルパチェ県]]クロスノ)
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1905|2|6|1982|9|1}}
|死没地 = {{POL}}<br />コンスタンチン=イェジオルナ
|出身校 = [[国際レーニン学校]]
|所属政党 = ポーランド労働党(1942–1948)<br />[[ポーランド統一労働者党]](1956–1971)
|称号・勲章 =
|配偶者 = Zofia Gomułkowa
|子女 = Ryszard Strzelecki-Gomulka
|親族(政治家) =
|サイン = Signature of Władysław Gomułka (1956-12-21).jpg
|国旗 = POL
|職名 = ポーランド労働党 書記長
|就任日 = [[1943年]]
|退任日 = [[1948年]]
|国旗2 = POL
|職名2 = [[ポーランド統一労働者党]] [[第一書記]]
|就任日2 = [[1956年]]10月
|退任日2 = [[1970年]]12月
}}
'''ヴワディスワフ・ゴムウカ'''('''ゴムルカ'''、Władysław Gomułka [[1905年]][[2月6日]] - [[1982年]][[9月1日]])は、[[ポーランド]]の[[政治家]]。[[1956年]]から[[1970年]]まで[[ポーランド統一労働者党]]([[ポーランド語]]: Polska Zjednoczona Partia Robotnicza、'''PZPR''')[[第一書記]]を務め、[[スターリニズム|スターリン主義]]からの脱却に足跡を残した。
 
== 経歴 ==
=== 戦前 ===
[[オーストリア=ハンガリー帝国]]クロッセン(現在の[[ポトカルパチェ県]]{{仮リンク|クロスノ|en|Krosno}})近郊の出身。初等学校卒業後、機械工として働いた。[[1921年]]に[[社会主義]]運動に加わり、[[1926年]]に[[共産党]]に入党した。[[共産主義]][[労働者]]グループと[[労働組合]]の組織者だに入った。1932年に[[逮捕]]され、[[禁錮|禁固]]4年を言い渡されたが病気のため1934年に[[保釈|釈放]]された。1934年~1935年、[[モスクワ]]の[[国際レーニン学校]]で学ぶ
 
[[1932年]]に[[逮捕]]され、[[禁錮|禁固]]4年を言い渡されたが病気のため[[1934年]]に[[保釈|釈放]]された。翌[[1935年]]までの間、[[モスクワ]]の[[国際レーニン学校]]で学ぶ。
[[第二次世界大戦]]勃発後、[[ナチス・ドイツ]]がポーランドを侵略し占領政策を行い始めると、ゴムウカはドイツに対する非合法的な[[レジスタンス運動]]([[パルチザン (軍事)|パルチザン]])に従事、これを指導した。[[独ソ戦|大祖国戦争]]が始まり、戦時中、影響力のある共産主義者となったゴムウカは、1943年、ポーランド労働者党([[:pl:Polska Partia Robotnicza|{{lang|pl|Polska Partia Robotnicza}}]]、'''PPR''')の書記長となるが、1948年党内におけるゴムウカ体制は[[ソビエト連邦|ソ連]]の意向に反する態度を取ったためソ連の[[ヨシフ・スターリン]]と[[ラヴレンチー・ベリヤ]]により[[解雇]]され、その後ゴムウカは共産主義活動家やソ連派の集まる{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}を設立した。
 
=== 戦中 ===
1944年1月1日、ゴムウカはナチス・ドイツの占領下ポーランドでの抗戦で[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の援護を行い、[[ポーランド人民共和国|ソ連の共産主義政権をポーランドに設立]]するため{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}(波蘭:Krajowa Rada Narodowa, KRN) により共産主義パルチザンの[[人民軍 (ポーランド)|ポーランド人民軍]]が設立された<ref>http://encyklopedia.pwn.pl/haslo.php?id=3871193</ref>。ソ連軍によってポーランドがナチス・ドイツから解放された後も重要な役職についた。1944年12月から[[:en:Provisional Government of the Republic of Poland]]で、そして1945年6月から[[:en:Provisional Government of National Unity]]の副首相兼回復領土問題相となった。
[[第二次世界大戦]]勃発後、[[ナチス・ドイツ]]がポーランドを侵略し占領政策を行い始めると、ゴムウカはドイツに対する非合法的な[[レジスタンス運動]]([[パルチザン (軍事)|パルチザン]])に従事、これを指導した。[[独ソ戦|大祖国戦争]]が始まり、戦時中、影響力のある共産主義者となったゴムウカは、[[1943年]]、ポーランド労働者党([[:pl:Polska Partia Robotnicza|{{lang|pl|Polska Partia Robotnicza}}]]、'''PPR''')の書記長となるが、1948年党内におけるゴムウカ体制は[[ソビエト連邦|ソ連]]の意向に反する態度を取っ。まためソ連の[[ヨシフ・スターリン]]と[[ラヴレンチー・ベリヤ]]により[[解雇]]されその後ゴムウカは共産主義活動家やソ連派の集まる組織「{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}を設立した。
 
[[1944年]]1月1日、ゴムウカはナチス・ドイツの占領下ポーランドでの抗戦で[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の援護を行い、[[ポーランド人民共和国|ソ連の共産主義政権をポーランドに設立]]するため{{仮リンク|国家全国評議会|en|State National Council}}(波蘭:Krajowa Rada Narodowa, KRN) により共産主義パルチザンの[[人民軍 (ポーランド)|ポーランド人民軍]]が設立された<ref>http://encyklopedia.pwn.pl/haslo.php?id=3871193</ref>。ソ連軍によってポーランドがナチス・ドイツから解放された後も重要な役職にいた。1944年12月から[[:en:Provisional Government of the Republic of Poland]]でそして1945年6月から[[:en:Provisional Government of National Unity]]ポーランド共和国暫定政府の副首相兼回復領土問題相となった。
1945年12月からポーランド労働党の政治局員、書記長となる。ソ連当局の支援の下、ポーランドに共産主義体制を樹立し政敵を大量に逮捕したことからゴムウカは、「小スターリン」と称された。
 
=== 戦後 ===
[[1948年]]に[[右翼]][[民族主義]]的な[[政治思想|思想]]であると批判されてから影響力が低下し、ゴムウカは同年9月3日に書記長から解任という処分を受けた。このため、ゴムウカは12月に[[自己批判]]を行ったが、政治局員には選出されなかった。1949年1月、ゴムウカは全ての国家ポストを失いポーランド統一労働者党から除名された。更に[[1951年]]7月には逮捕・投獄された。
[[1945年12月から]]、戦後はポーランド労働党の国民統一暫定治局員、書記長なるして副首相の任を継続。ソ連当局の支援の下、ポーランドに共産主義体制を樹立し政敵を大量に逮捕したことからゴムウカは、「小スターリン」と称された。
 
しかしゴムウカは、[[ソビエト連邦|ソ連]]の意向に反する態度を取り始める。[[1948年]]に[[右翼]][[民族主義]]的な[[政治思想|思想]]であると批判されてから影響力が低下し、ゴムウカは同年9月3日に書記長から解任という処分を受けた。このため、ゴムウカは12月に[[自己批判]]を行ったが、政治局員には選出されなかった。[[1949年]]1月、ゴムウカは全ての国家ポストを失いポーランド統一労働者党から除名された。更に[[1951年]]7月には逮捕・投獄された。そして翌[[1952年]]、正式に「[[ポーランド人民共和国]]」が成立する
だが、ゴムウカはスターリンの死とソ連の政策変更を経て[[1954年]]12月に釈放され、[[1956年]]6月に[[ポズナン暴動]]が起こると8月5日に党への復帰が認められ10月21日には党の指導者的地位に当たる第一書記に選出される。ゴムウカは[[ワルシャワ条約機構]]の影響下の中、体制維持に尽力する一方で自主的路線に政策を転換することを約束した。
 
だが、ゴムウカはスターリンの死とソ連の政策変更を経て[[1954年]]12月に釈放される。[[1956年]]6月に[[ポズナン暴動]]が起こると8月5日に党への復帰が認められ10月21日には党の指導者的地位に当たる[[第一書記]]に選出される。ゴムウカは[[ワルシャワ条約機構]]の影響下の中、体制維持に尽力する一方で自主的路線に政策を転換することを約束した。
結果的にゴムウカは[[第二次世界大戦]]後、東欧を支配していた[[スターリニズム|スターリン主義]]的な風潮を、農業集団化の廃止、[[ローマ]]・[[カトリック教会]]への[[迫害]]の停止、[[検閲]]の緩和などの改革を行う事によって解消することに貢献した。このようなゴムウカの改革は当初こそ民衆に歓迎された。しかしゴムウカの改革は行き詰まり、カトリック教会との軋轢が日増しに増大。日を追う事に活発化、過激化する民衆による自由化運動を危険なものと判断し、国内の[[自由化]]運動を[[弾圧]]するようになっていく。[[1970年]]に大規模な[[労働運動]]がポーランド全土に拡大する中でゴムウカはその権力を失った。同年[[12月18日]]、第一書記を辞任した。
 
[[File:Wladyslaw gomulka grob powazki.jpg|thumb|200px|首都[[ワルシャワ]]軍事墓地にあるゴムウカの墓]]
ゴムウカは1972年まで[[国会 (ポーランド)|議会(セイム)]]代議員だった。1982年9月1日に死去した。{{没年齢|1905|2|6|1982|9|1}}。
結果的にゴムウカは[[第二次世界大戦]]後、東欧を支配していた[[スターリニズム|スターリン主義]]的な風潮を、農業集団化の廃止、[[ローマ]]・[[カトリック教会]]への[[迫害]]の停止、[[検閲]]の緩和などの改革を行う事によって解消することに貢献した。このようなゴムウカの改革は当初こそ民衆に歓迎された。
 
結果的にゴムウカは[[第二次世界大戦]]後、東欧を支配ていた[[スターリニズム|スターリン主義]]的な風潮を、農業集団化の廃止、[[ローマ]]・[[カトリック教会]]への[[迫害]]の停止、[[検閲]]の緩和などの改革を行う事によって解消することに貢献た。このようなゴムウカの改革は当初こそ民衆徐々歓迎された。しかしゴムウカの改革は行き詰まり、カトリック教会との軋轢が日増しに増大。日を追う事に活発化、過激化する民衆による自由化運動を危険なものと判断し、国内の[[自由化]]運動を[[弾圧]]するようになっていく。[[1970年]]に大規模な[[労働運動]]がポーランド全土に拡大する中でゴムウカはその権力を失った。同年[[12月18日]]、第一書記を辞任。翌[[1971年]]に引退した。
 
[[1982年]]9月1日に肺がんのため死去。{{没年齢|1905|2|6|1982|9|1}}。
 
== 脚注 ==