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武田氏は[[武田信虎|信虎]]の頃に甲斐統一を進めるが、[[享禄]]4年([[1531年]])には市域で武田信虎と[[大井氏#武田大井氏|大井氏]]、[[今井氏]]らの甲斐国人勢力に[[信濃国]]諏訪領主の[[諏訪氏]]が荷担した[[河原辺合戦]]が起こる。同合戦では信虎が国人連合軍を撃破し、武田氏により国内統一が進む。
 
[[武田信玄|武田晴信]](信玄)のころには家臣団の中に市域を発祥とする氏族がおり、[[甘利虎泰]]は譜代家老として活躍し、『[[甲陽軍鑑]]』によれば武田家における最高職位の「[[両職]]」を務めたという<ref>『山梨県の地名』、p.603</ref>。虎泰は[[永禄]]10年([[1548年]])の上田原の戦いにおいて戦死し、甘利氏の一族では虎泰の子・[[甘利信忠|昌忠]](信忠)・[[甘利信康|信康]]の活動が見られる。旭町上条北割の[[大輪寺]]は甘利氏の居館跡と伝わる<ref>『山梨県の地名』、p.603</ref>。また、市域を発祥とする青木氏は甲斐北西部の地域武士団・[[武川衆]]の一員として活躍し、駒井郷を発祥とする[[駒井氏]]からは[[駒井高白斎]]が信玄側近として活躍した<ref>『山梨県の地名』、p.603</ref>。ほか、水上郷に居館を構えた[[水上宗富]]は信濃深志城(長野県松本市)の留守居役を務めた。
 
[[天正]]9年([[1581年]])、武田家当主の武田勝頼は織田・徳川勢の侵攻に備えて中田町上条・藤井町駒井に[[新府城]]を新たに築城し、甲府からの府中移転を試みた<ref>『山梨県の地名』、p.603</ref>。勝頼は天正10年([[1582年]])3月の織田・徳川勢の[[甲州征伐|甲斐侵攻]]により新府城を放棄して[[郡内地方|郡内]]へ向かい、その途中で滅亡した<ref>『山梨県の地名』、p.603</ref>。