「金剛證寺」の版間の差分

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<div class="floatright">[[Image:Kongoushouji_hondou.jpg|thumb|300px|none|金剛證寺本堂]]</div>
創建は6世紀半ば、[[欽明天皇]]が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めと云われているが、さだかでない。平安時代の825年(天長2年)に[[空海]]が[[真言密教]]道場として[[金剛證寺]]を建立したと伝えられている。その後衰退したが、14世紀末の1392年(明徳3年)に[[鎌倉]][[建長寺]]5世の東岳文昱(とうがくぶんいく)が金剛證寺の再興に尽力した。これにより東岳文昱を開山第一世とし、[[真言宗]]から臨済宗に[[改宗]]し[[禅宗]][[寺院]]となった。
<!--[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[徳川家康]]の息子が[[織田信長]]により幽閉された場所でもある。また、[[九鬼嘉隆]]も祀られている。-->
 
[[室町時代]]には[[神仏習合]]から[[伊勢神宮]]の丑寅(北東)に位置する金剛證寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢志摩最大の寺となった。
 
[[関ケ原の戦い]]から敗走したのちに鳥羽市の答志島で自刃した[[九鬼嘉隆]]のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。[[江戸時代]]には[[徳川幕府]]が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した。1609年(慶長14年)には[[備前]][[岡山城]]主であった[[池田輝政]]が火災で失われた本堂摩尼殿(まにでん)を再建した。この本堂は1701年(元禄14年)に[[徳川綱吉]]の母[[桂昌院]]による修復を経て現存し、[[文化財|重要文化財]]になっている。
 
[[寛永]]7年([[1630年]])に秋田家の祖で[[常陸国]][[宍戸藩]]主[[秋田実季]]が山麓に蟄居させられている。また[[豊臣秀吉]]の勘気を受けた[[尾藤知宣]]が潜伏したり、[[関ヶ原の戦い]]に際して[[福原長堯]]がこの地で自害したなど、[[アジール]]的な空間でもあった。
<!--[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[徳川家康]]の息子が[[織田信長]]により幽閉された場所でもある。また、[[九鬼嘉隆]]も祀られている。-->
 
[[大正14年]]に[[ケーブルカー]]が開通、昭和になってからは内宮前から登山バスが運行されるなどで朝熊山へ登る人が激増したが、[[第二次世界大戦]]中の1944年(昭和19年)ケーブルカーの線路が軍需物資として軍に徴収され廃線となり、一般の朝熊山への入山が禁止され金剛證寺は衰退した。第二次世界大戦後には[[伊勢湾台風]]などで被害を受けるなど衰退の一途をたどった。1964年(昭和39年)の伊勢志摩スカイライン開通後には参拝客も再び急増し、1979年(昭和54年)に仁王門が再建されるなど、往時の賑わいを超えるまでに復興した。