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江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では、江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。[[享保]]7年([[1722年]])正月21日には麹町(現[[東京都]][[新宿区]])[[伝通院|小石川伝通院]](または三郎兵衛店)の町医師である[[小川笙船]](赤ひげ先生として知られる)が、将軍への訴願を目的に設置された[[目安箱]]に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた。
 
設立計画書によれば、建築費は金210両と[[丁銀|銀]]12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は[[与力]]2名、[[同心]]10名、[[武家奉公人|中間]]8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した。
 
== 養生所の開設と変遷 ==
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養生所は[[享保]]7年([[1722年]])12月21日に小石川薬園(現在の[[小石川植物園]])内に開設された。建物は[[柿葺]]の[[長屋]]で薬膳所が2カ所に設置されていた。収容人数は40名で、医師ははじめ本道([[内科学|内科]])のみで小川ら7名が担当した。はじめは[[町奉行]]所の配下で、[[寄合医師]]・[[小普請医師]]などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、[[町医者]]に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった。
 
当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、また[[無宿|無宿者]]と同等の扱いを受けるのを嫌われ利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や[[寺社奉行]]支配地の貧民も収容した。また、同年7月には[[町名主]]に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている。
 
幕末になると、蘭方医が台頭し「医学所」と「[[医学館]]」が対立し、[[蘭方医学|蘭方医]]の権威が低下するとともに養生所の質は低下する。
 
明治維新により一旦は廃止されたものの医学館の管轄に移り「貧病院」と改称して存続したが、新政府の漢方医廃止の方針によって間もなく閉鎖されている。薬園とともに養生所施設は、[[1870年]]に文部省の管轄に移行され、[[1877年]]、[[東京大学|東京帝国大学]]に払い下げられ、最終的には理学部に組み込まれている。