「米沢城」の版間の差分

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== 概要 ==
城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期には[[伊達氏]]の本拠地が置かれ、[[伊達政宗]]の出生した城でもある。[[江戸時代]]には[[米沢藩]]の藩庁が置かれて[[上杉景勝]]・[[上杉鷹山]]などの歴代藩主が居住した。平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城である<ref name="aoki">[[青木昭博]]「米沢の町づくりと殖産興業」、花ヶ前盛明監修『直江兼続の新研究』宮帯出版社、2009年。</ref>。10基の櫓と17棟の門が開かれた。上杉氏による築城(大改修)当時30万石の大名の居城であって、石垣は少なく、[[土塁]]を多用し、[[天守]]は構えられず、土塁を築き本丸に東北隅と西北隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用(御三階)としていた。他に二層櫓が複数あり
 
現在、本丸跡は[[上杉神社]]の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉[[伯爵]]邸)がある。
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8代[[長井広房|広房]]は[[室町時代]]初期([[天授 (日本)|天授]]6年([[1380年]])、[[応永]]9年([[1403年]])、応永20年([[1413年]])などの説がある。)に、[[伊達宗遠]]に侵略されこの地を追われた。以後、[[安土桃山時代]]までここは[[伊達氏]]の支配下に入った。[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])[[伊達稙宗]]・晴宗父子の対立である[[天文の乱]]を経て、晴宗は本拠地を[[桑折西山城]]より米沢城に移した<ref>『山形新聞 平成30年4月18日』伊達政宗と米沢、菅野正道。晴宗の重臣[[中野宗時]]の勢力基盤であったことが移転の根拠の一つとして示されている。</ref>。晴宗から[[伊達輝宗|輝宗]]、[[伊達政宗|政宗]]と当主が変わっても本拠地として使用された。米沢に城下町が成立したのはこの時代と考えられる<ref name="aoki" />。
 
[[天正]]17年([[1589年]])政宗は[[蘆名義広]]を破り、[[蘆名氏]]を滅亡させると[[若松城|黒川城]](114万石)に本拠を移し、晴宗の弟にあたる[[伊達宗澄|宗澄]]ついで[[梁川宗清|宗清]]を城代に据えた。しかし、[[豊臣秀吉]]はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢(72万石)に戻すことになる。天正19年([[1591年]])政宗は[[豊臣秀吉]]の命により[[岩出山城]](58万石)に移った。
 
置賜郡は伊達氏代わって[[会津]]に封ぜられた[[蒲生氏郷]]の支配するところとなり、重臣・[[蒲生郷安]]が米沢城主となった<ref name="kimura" />。郷安はこの時、城の改修を行っている。[[文禄]]年中に[[白子神社 (米沢市)|白子神社]]が米沢城鎮守となる。[[慶長]]2年([[1597年]])氏郷の子、[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]は[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮]]に移封となり、会津には[[越後国]]より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・[[直江兼続]](6万石、与力を含め30万石とも)を置いた<ref name="kimura">木村徳衛『直江兼続伝』(私家版)、1944年、421頁。</ref>。
 
=== 江戸時代 ===
[[ファイル:Yonezawa castle reproduction image.JPG|250px|thumb|上杉神社内に設置されている米沢城下復元鳥瞰図。享保10年の絵図を基に制作。]]
慶長5年([[1600年]])秀吉の死後、[[豊臣氏]]への恩義から[[徳川家康]]の専横を「[[直江状]]」という文書によって弾劾し[[徳川氏]]への宣戦布告に及んだ。会津討伐を受けたが、家康は小山で[[石田三成]]挙兵の報に接してい引き返し、上杉軍は[[直江兼続]]を総大将として米沢城より北上し東軍[[最上氏]]を攻める。しかし、[[関ヶ原の戦い]]での西軍の敗戦により、軍を米沢城へと引き上げた。これらの戦いにより上杉氏は[[置賜地方]]と[[陸奥国]][[伊達郡]]・[[信夫郡]]30万石(実高51万石)に[[減封]]され、米沢を居城(信達(しんたつ)両郡の[[福島城]]・[[梁川城]]には本庄氏・須田氏・芋川氏などを置く)とした。以後、[[明治維新]]まで米沢藩上杉氏の居城となった<ref name="kimura" />。
 
慶長13年([[1608年]])景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年([[1613年]])輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。[[本丸]]の内部は享和2年の「松岬城揲図」が詳しく、本丸中央部に藩主の住居が建ち、東南隅の堤上に[[上杉謙信]]の祀る御堂を建て<ref name="aoki" />、[[天守]]の代わりに東北と西北に三層の隅櫓(御三階)を2基置いた。他に二層櫓が複数設置された。
二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂に近侍する[[法音寺]]・[[大乗寺]]など御堂に交替で勤仕する[[真言宗]]の二一ヶ寺を置いたのが特色である<ref name="aoki" />。三の丸には上級・中級家臣の屋敷で占められ、町人町は郭外に置かれた町家郭外形の典型的な城下町プランに属する<ref name="aoki" />。[[石垣]]は少なく、[[土塁]]を多用し、全体的に質素な城となった。これは120万石時代の家臣をほとんど削減しなかったため、財政が逼迫していたことによるものとされるが、上杉景勝が会津で建設を目指していた[[神指城]]も米沢城と同様の[[曲輪|縄張]]で、土塁を多用した造りである。これは春日山城の麓にあった[[関東管領]]邸である御館にも共通した特徴であり、上杉氏の本拠地としての伝統的な城館建築の造りである。
大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である<ref name="aoki" />。
 
[[寛文]]4年([[1664年]])3代[[上杉綱勝|綱勝]]が嗣子を定めないまま急死し、[[上杉綱憲|綱憲]]が[[末期養子]]として認められ藩は存続したが石高は15万石(実高28万石)に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。しかし、9代[[上杉鷹山|治憲]]の藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である[[餐霞館]]は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。
 
[[戊辰戦争]]では、藩が[[改易]]される窮地を救った[[会津藩]]主[[保科正之]]への恩義もあることから[[奥羽越列藩同盟]]に加わった。
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== 考古資料 ==
=== 遺構 ===
* 本丸にあった[[上杉謙信]]を祀る御堂(みどう)が、長命寺の本堂として移築され現存する。また、東大手門の礎石が現在市内川井に石碑となっている。
* 東北隅三層櫓跡に[[有栖川宮熾仁親王]]題字の「上杉義公」顕彰碑
* 舞鶴橋、[[土塁]]、[[堀]]
* 旧・上杉[[伯爵]]邸(米沢市上杉記念館) - [[登録有形文化財]]
* 城内にあった[[上杉家廟所]]は、城址から北西の現在地へ移転 - 国定[[史跡]]
 
== 参考文献 ==