「野崎左文」の版間の差分

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1880年(明治13年)に工部省を辞め「仮名読新聞」の見習記者として働き、翌年には明治日報に招かれるが2年足らずで退社する<ref>[[#柳田1959|柳田、1959年]]、p.142</ref>。1882年(明治15年)に魯文の「いろは新聞」に拾われ、以後は絵入[[朝野新聞]]、東京絵入新聞、今日新聞、自由灯、時論日報などの各新聞社を転々とし、1886年(明治19年)には[[坂崎紫瀾]]とともに浪華新聞に招聘される。1888年(明治21年)に[[中江兆民]]の主宰する東雲新聞、そして関西日報をへて東京公論に入社(大同新聞と合併して「国会」社となる)。
 
1892年(明治25年)、「国会」を辞し『日本名勝地誌』12巻の編纂をしながら、1895年(明治28年)まで[[万朝報]]に勤め、これをもって記者生活の打ち止めとする<ref name="yanagidap141"/>。[[日本鉄道]]の書記となり<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤整|year=1995|title=日本文壇史3|publisher=講談社文芸文庫|pages=P.216}}</ref>、[[北海道官設鉄道]]、[[九州鉄道]]などを経て[[鉄道省|鉄道院]]副参事(従六位高等官五等)となり1914年([[大正]]3年)に退職。明治文化研究会で明治初期の戯作者について調べたことを発表し、投書にも積極的であった。研究会で知り合っていた[[柳田泉]]に生前から預けていた自伝と辞世は遺言により死後に発表される。享年78(満76歳没)。
{{Cquote|''後の世はどんなに生まれかはるかと思へば死ぬも楽しみなもの''}}