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[[File:Yonezawa Castle air.jpg|250px|thumb|米沢城の航空写真<br />(1976年撮影・国土航空写真)]]
'''米沢城'''(よねざわじょう)は、[[山形県]][[米沢市]]丸の内([[出羽国]][[置賜郡]])にあった[[中世]]から[[近世]]にかけての[[日本の城]]([[平城]])である。[[長井氏]]および[[伊達氏]]の本拠地であり、[[江戸時代]]は[[米沢藩]][[上杉氏]]の藩庁および、二の丸に[[米沢新田藩]]の藩庁が置かれていた。2017年には[[続日本100名城]]に選定された。
 
== 概要 ==
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== 歴史・沿革 ==
=== 鎌倉・室町・安土桃山時代 ===
米沢城が最初に築かれたのは、[[鎌倉時代]]中期の[[暦仁]]元年([[1238年]])と伝えられる。[[鎌倉幕府]]の重臣・[[大江広元]]の次男・[[長井時広]]が[[出羽国]]置賜郡長井郷の[[地頭]]として赴任した際に築城されたと推定されているが、これを実証する史料や遺構は確認されていない<ref name="aoki" />。時広は赴任地の地名から長井姓を名乗った。以後、[[長井氏]]の支配が150年近く続いた。
 
=== 近現室町時代 ===
8代[[長井広房|広房]]は[[室町時代]]初期([[天授 (日本)|天授]]6年([[1380年]])、[[応永]]9年([[1403年]])、応永20年([[1413年]])などの説がある。)に、[[伊達宗遠]]に侵略されこの地を追われた。以後、[[安土桃山時代]]までここは[[伊達氏]]の支配下に入った。[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])[[伊達稙宗]]・晴宗父子の対立である[[天文の乱]]を経て、晴宗は本拠地を[[桑折西山城]]より米沢城に移した<ref>『山形新聞 平成30年4月18日』伊達政宗と米沢、菅野正道。晴宗の重臣[[中野宗時]]の勢力基盤であったことが移転の根拠の一つとして示されている。</ref>。晴宗から[[伊達輝宗|輝宗]]、[[伊達政宗|政宗]]と当主が変わっても本拠地として使用された。米沢に城下町が成立したのはこの時代と考えられる<ref name="aoki" />。
 
=== 戦国・桃山時代 ===
[[天正]]17年([[1589年]])政宗は[[蘆名義広]]を破り、[[蘆名氏]]を滅亡させると[[若松城|黒川城]](114万石)に本拠を移し、晴宗の弟にあたる[[伊達宗澄|宗澄]]ついで[[梁川宗清|宗清]]を城代に据えた。しかし、[[豊臣秀吉]]はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢(72万石)に戻すことになる。天正19年([[1591年]])政宗は[[豊臣秀吉]]の命により[[岩出山城]](58万石)に移った。
 
置賜郡は伊達氏代わって[[会津]]に封ぜられた[[蒲生氏郷]]の支配するところとなり、重臣・[[蒲生郷安]]が米沢城主(7万石、蒲生家中で最大)となった<ref name="kimura" />。郷安はこの時、城の改修を行っている。[[文禄]]年中に[[白子神社 (米沢市)|白子神社]]が米沢城鎮守となる。[[慶長]]2年([[1597年]])氏郷の子、[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]は[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮]]に移封となり、会津には[[越後国]]より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・[[直江兼続]](6万石、与力を含め30万石とも)を置いた<ref name="kimura">木村徳衛『直江兼続伝』(私家版)、1944年、421頁。</ref>。
 
=== 江戸時代前期 ===
[[ファイル:Yonezawa castle reproduction image.JPG|250px|thumb|上杉神社内に設置されている米沢城下復元鳥瞰図。享保10年の絵図を基に制作。]]
慶長5年([[1600年]])秀吉の死後、[[豊臣氏]]への恩義から[[徳川家康]]の専横を「[[直江状]]」という文書によって弾劾し[[徳川氏]]への宣戦布告に及んだ。会津討伐を受けたが、家康は小山で[[石田三成]]挙兵の報に接してい引き返し、上杉軍は[[直江兼続]]を総大将として米沢城より北上し東軍[[最上氏]]を攻める。しかし、[[関ヶ原の戦い]]での西軍の敗戦により、軍を米沢城へと引き上げた。これらの戦いにより上杉氏は[[置賜地方]]と[[陸奥国]][[伊達郡]]・[[信夫郡]]30万石(実高51万石)に[[減封]]され、米沢を居城(信達(しんたつ)両郡の[[福島城]]・[[梁川城]]には本庄氏・須田氏・芋川氏などを置く)とした。以後、[[明治維新]]まで米沢藩上杉氏の居城となった<ref name="kimura" />。
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大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である<ref name="aoki" />。
 
[[寛文]]4年([[1664年]])3代[[上杉綱勝|綱勝]]が嗣子を定めないまま急死し、[[上杉綱憲|綱憲]]が[[末期養子]]として認められ藩は存続したが石高は15万石(実高28万石)に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。しかし、9代[[上杉鷹山|治憲]]の藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である[[餐霞館]]は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る
 
=== 江戸時代中後期 ===
[[戊辰戦争]]では、藩が[[改易]]される窮地を救った[[会津藩]]主[[保科正之]]への恩義もあることから[[奥羽越列藩同盟]]に加わった。
9代[[上杉鷹山|治憲]]は、藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である[[餐霞館]]は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。次代の[[上杉治広]]も蘭学医術など学問を奨励するなど、[[文化 (元号)|文化]]7年([[1810年]])に「政治向き格別に行届き、領内治め方よろし」等として表彰。続く[[上杉斉定]]も[[天保]]7年([[1836年]])に表彰されている<ref>「上杉家御年譜」(米沢温故会)</ref>。
 
上杉斉憲の代にも幕府から表彰され、18万7千石に加増された。斉憲は京都で西国雄藩とも交わり<ref>上杉家は東国大名としては珍しく、大坂や京都屋敷を所有。</ref>、文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して[[二条城]]警護にあたる。
=== 近現代 ===
 
[[明治]]4年(1871年)[[廃藩置県]]により米沢県が置かれた。明治5年([[1872年]])最後の藩主・[[上杉斉憲|斉憲]]は、城内にあった謙信の霊屋(御堂)を鷹山とともに合祀し上杉神社とした。明治6年([[1873年]])には城の建物が全て破却された。二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場(後に市役所)として利用した。
=== 幕末から明治 ===
[[戊辰戦争]]では、藩が[[改易]]される窮地を救った[[会津藩]]主[[保科正之]]への恩義もあることから[[奥羽越列藩同盟]]に加わり、同盟を主導し件で4万石を減封
明治2年(1869年)、版籍奉還により上杉茂憲は、米沢藩知事となる。米沢新田藩を併合し、米沢藩の最終石高は15万7千石(実高35万石)。
 
[[明治]]4年(1871年)[[廃藩置県]]により米沢県が置かれた。同年、県域の調整(屋代の再編入、分領支配の終了など)があり、置賜郡全部を県域とする[[置賜県]]が発足。 明治5年([[1872年]])最後の藩主・[[上杉斉憲|斉憲]]は、城内にあった謙信の霊屋(御堂)を鷹山とともに合祀し上杉神社とした。明治6年([[1873年]])には城の建物が全て破却された。二の丸にあった藩の政庁はそのまま郡役所、町役場(後に市役所)として利用した。
 
明治7年([[1874年]])には城跡は松が岬公園として市民に一般開放された。明治9年([[1876年]])、謙信霊柩は[[上杉家廟所]]へ、上杉神社を現在の地である本丸跡に移した。明治29年([[1896年]])二の丸跡に上杉家14代当主・[[上杉茂憲|茂憲]]伯爵邸が建てられた。明治35年([[1902年]])上杉神社が[[近代社格制度#別格官幣社|別格官幣社]]となったのを期に、鷹山を摂社・[[松岬神社]](本丸の東隣、世子御殿跡)に分祀した。
[[大正]]8年([[1919年]])米沢市内は[[米沢大火]]に見舞われ、上杉神社・伯爵邸にも類焼した。現在の神社社殿は大正12年([[1923年]])に再建されたものであり、伯爵邸も大正14年([[1925年]])に再建され鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれた。[[昭和]]25年([[1950年]])伯爵邸が上杉家から米沢市に譲渡され、翌年より中央公民館として利用された。昭和54年([[1979年]])公民館から上杉記念館に改変され郷土料理の提供や資料の展示が行われている。[[平成]]9年([[1997年]])伯爵邸は[[登録有形文化財]]となった。
 
=== 大正から昭和 ===
[[2017年]](平成29年)4月6日、[[続日本100名城]](109番)に選定された。
[[大正]]8年([[1919年]])米沢市内は[[米沢大火]]に見舞われ、上杉神社・伯爵邸にも類焼した。現在の神社社殿は大正12年([[1923年]])に再建されたものであり、伯爵邸も大正14年([[1925年]])に再建され鶴鳴館(かくめいかん)と呼ばれた。[[昭和]]25年([[1950年]])伯爵邸が上杉家から米沢市に譲渡され、翌年より中央公民館として利用された。昭和54年([[1979年]])公民館から上杉記念館に改変され郷土料理の提供や資料の展示が行われている。[[平成]]9年([[1997年]])伯爵邸は[[登録有形文化財]]となった。
 
[[昭和]]25年([[1950年]])伯爵邸が上杉家から米沢市に譲渡され、翌年より中央公民館として利用された。昭和54年([[1979年]])公民館から上杉記念館に改変され郷土料理の提供や資料の展示が行われている。
==雪の御三階櫓(ライトアップ)==
 
=== 平成から21世紀 ===
[[平成]]9年([[1997年]])伯爵邸は[[登録有形文化財]]となった。
[[2017年]](平成29年)4月6日、[[続日本100名城]](109番)に選定された。
==== 雪の御三階櫓(ライトアップ)====
[[2017年]](平成29年)[[2月11日]]から2日間、「上杉雪灯篭まつり」で、米沢[[青年会議所]]が御三階櫓を実物3分の1縮尺の雪像で再現した。
雪で土台をつくり、建物は板などで製作、真っ白な城に仕上げた。窓は米沢で開発された有機EL照明パネルを使用、LEDで[[ライトアップ]]し、カラフルに演出した<ref>山形新聞online(2017年01月16日)ほか</ref>。
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=== 遺構 ===
* 本丸にあった[[上杉謙信]]を祀る御堂(みどう)が、長命寺の本堂として移築され現存する。また、東大手門の礎石が現在市内川井に石碑となっている。
* 東北隅三層櫓跡に[[有栖川宮熾仁親王]]題字の「上杉義公」顕彰碑
* 菱門橋、舞鶴橋、[[土塁]]、[[堀]]
* 旧・上杉[[伯爵]]邸(米沢市上杉記念館) - [[登録有形文化財]]
* 城内にあった[[上杉家廟所]]は、城址から北西の現在地へ移転 - 国定[[史跡]]
* [[伊達政宗]]生誕地の石碑
 
== 参考文献 ==