「上海共同租界」の版間の差分

この租界の撤廃については[[第二次世界大戦]]中の各国の思惑から二重に行われることになった。イギリス人とアメリカ人の影響は、実質的には[[1941年]]12月8日の日本軍による上海占領と[[太平洋戦争]]開戦によって終わっていた。上席の連合国派の職員と評議員はその職から解任されたにもかかわらず、多くの連合国は1943年に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。しかし、この租界は1943年2月に[[英中友好条約]]によって形式上、イギリスから中国国民党の蒋介石に租界を「返還」している。しかし日本軍と戦っていた蒋介石はこの時期上海を統治しておらず、これはあくまで形式上のものであった<ref>『外交官の一生』P.234 石射猪太郎著 中公文庫</ref>。
 
一方で[[1943年]]7月、上海市議会(工部局)の日本人の画策で租界は日本と関係の深い[[汪兆銘政権]]下の上海市政府に返還された。太平洋戦争後、中国国民党率いる中華民国政府の統治下になった際に、この返還事業の清算委員会が慌てて譲渡の詳細について会談した後が残っている。議会とな工部局庁舎だていビル建物未だ上海に残っ現存している。
 
その後国共内戦で中国国民党が敗北し、中国国民党が[[台湾島]]に遷都脱出た。中国共産党率いる中華人民共和国が設立された[[1949年]]以降は、市政府(工部局)は中国共産党の選んだ上海市長の下におさまった。
 
==出典==
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