「呂範」の版間の差分

m
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
m
若い頃に県の役人となり、風采が優れていることが評判となった。郷里の豪族である劉氏の娘を妻に娶った。妻の父である劉氏は、呂範の相を見て、只者でない人物と見抜き、呂範が貧乏であったことを気にした母を説得したという。
 
戦乱を避けて[[寿春]]に避難し、そこで当時[[袁術]]を頼っていた[[孫策]]と出会い、孫策から高く評価されたため、呂範はそこで自分のほうから臣下の礼を執り、その場で食客100人をひきつれて臣従孫策のもとに身申し出寄せた。孫策は[[江都]]にいた母親を呼び寄せるため、その使者の任を呂範に与えた。しかし、徐州の[[牧]][[陶謙]]は呂範が袁術の手先であると疑い、捕えた上で拷問を加えたため、呂範の部下や食客が役所を襲撃し、呂範の身柄を奪い返した。当時の孫策の側近としては、呂範と[[孫河]]が双璧であり、常に孫策に従い、苦楽を共にする存在であった。孫策も呂範を身内として遇し、奥に通して母親がいる座敷で酒食を振る舞ったという。
 
孫策の[[廬江郡|廬江]]侵攻に随行し、後の[[江東]]進出にも同行した。孫策が横江と当利で[[張英 (後漢)|張英]]と[[于糜]]を破り、湖熟と小丹陽を手中にすると、呂範は湖熟の相となった。孫策は秣陵と曲阿を取り、[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]と[[サク融|笮融]]の残党を傘下に収めることに成功すると、呂範に2千の兵と50の騎兵を与えた。呂範は宛陵県の令となり、[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]]の不服従民を破る功績を挙げた。呉郡に戻り、孫策に願い出て[[都督]]となった(『江表伝』)。
 
[[228年]]に[[大司馬]]に昇進するも、印綬の授与を待たずして死去した。孫権は哭礼し、印綬を遺族の元に追贈した。さらに、都が建業に戻った後に呂範の墓を訪れ、字で呼びかけると涙を流しつつ追悼したという。長子は早くに亡くなっており、次子の呂拠が跡を継いだ。
 
かつて孫策から会計全般を預かった際には、孫権から金をせびられても孫策の許可なしには決して与えなかった。このことで当時は孫権に恨まれたが、後には忠実さを評価されて、信任される理由の一つとなった。また[[厳シュン|厳畯]]には、孫権が[[魯粛]]と呂範を重用しすぎるのではないかと疑問視されていたが、孫権は[[皇帝]]になった後、改めてそれを否定したため、厳畯も納得するようになったという(『江表伝』)。
 
== 人物 ==
容姿について「おしだし出しが立派で風采が上がった」と記している。
容観、姿貌には観るべきものがあった。
 
性格は威儀を好み、揚州の名族出身であった陸遜・全琮の如きから貴公子に及ぶまで、皆な敬意を修めて謙粛であり、軽脱しようとはしなかった、呂範に対しては丁重に振舞った。また豪奢で派手好きの性格になっており、咎める者もいたが、呂範は仕事に励み法律も尊重していたため、孫権は呂範の功績を尊び、その素行について咎めることはしなかった。孫権は若い頃こそドケチな呂範を嫌っていましたが、当主として信用するなら誰かという話となると、迷わず呂範に軍配を上げ、彼の忠勤と人柄を信任したのでした。
 
== 逸聞 ==
性格は威儀を好み、揚州の名族出身であった陸遜・全琮の如きから貴公子に及ぶまで、皆な敬意を修めて謙粛であり、軽脱しようとはしなかった、呂範に対しては丁重に振舞った。また豪奢で派手好きの性格になっており、咎める者もいたが、呂範は仕事に励み法律も尊重していたため、孫権は呂範の功績を尊び、その素行について咎めることはしなかった。
孫策と碁を打っている時、呂範は唐突に、「私に都督の任をお与えください」と孫策に頭を下げてきました。「もうお前の身なりは十分立派なものだ。今更都督なんぞになって、こまごました雑務に当たる必要もないだろう」と孫策。しかし呂範は「これは妻子や栄光のためではありません」と返し、以下のように力説しました。「この乱世は一蓮托生。大船に皆で寄り合っているようなものであり、弱い箇所があってよい事はありません。弱点に何かしらの補強を為さないままでは、そこから最後には沈没する憂き目に遭ってしまうのです」結局孫策はその場でにっこり笑ったまま、何も答えようとしませんでした。これでは認められることがないと考えた呂範は、退出すると軍服に着替え、乗馬鞭を持って勝手に都督を自称。孫策は、改めて都督の任を授けることにし、かくして軍中は規律と法令によって引き締まる事になったのでした。呂範が都督となると間もなく軍の規律と法令はよく守られるようになった
 
若い孫権は遊ぶ金欲しさでたびたび公費を使い込んでは、周谷しゅうこくが帳簿をごまかしてやっていた。かつて孫策から会計全般を預かった際には、孫権から金をせびられても孫策の許可なしには決して与えなかった。このことで当時は孫権に恨まれたが、後に孫権が当主となると、周谷を遠ざけ呂範を重用したという。忠実さを評価されて、信任される理由の一つとなった。また[[厳シュン|厳畯]]には、孫権が[[魯粛]]と呂範を重用しすぎるのではないかと疑問視されていたが、孫権は[[皇帝]]になった後、改めてそれを否定したため、厳畯も納得するようになったという。孫権が厳畯と討論した際、呂範を光武帝の功臣の呉漢に準えている。(『江表伝』)
孫権が厳畯と討論した際、呂範を光武帝の功臣の呉漢に準えている。(『江表伝』)
 
== 三国志演義 ==
10

回編集