「呂範」の版間の差分

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== 逸聞 ==
孫策と碁を打っている時、呂範は孫策に軍の弛緩を指摘し、芝居を打って無理やり都督の職を貰えるように芝居を打ったと言う逸話もあり、呂範は、退出すると軍服に着替え、乗馬鞭を持って勝手に都督を自称。孫策は、改めて都督の任を授けることにし、呂範が都督となると間もなく軍の規律はよく守られるようになった<ref>孫策と碁を打っている時、呂範は唐突に、「私に都督の任をお与えください」と孫策に頭を下げてきました。「もうお前の身なりは十分立派なものだ。今更都督なんぞになって、こまごました雑務に当たる必要もないだろう」と孫策。しかし呂範は「これは妻子や栄光のためではありません」と返し、以下のように力説しました。「この乱世は一蓮托生。大船に皆で寄り合っているようなものであり、弱い箇所があってよい事はありません。弱点に何かしらの補強を為さないままでは、そこから最後には沈没する憂き目に遭ってしまうのです」結局孫策はその場でにっこり笑ったまま、何も答えようとしませんでした。これでは認められることがないと考えた呂範は、退出すると軍服に着替え、乗馬鞭を持って勝手に都督を自称。孫策は、改めて都督の任を授けることにし、かくして軍中は規律と法令によって引き締まる事になったのでした。</ref>。
 
若い孫権は金欲しさでたびたび公費を使い込んでは、周谷が帳簿をごまかしてやっていた。孫策はあるとき、呂範に会計事務の仕事を任せることになった。孫権は度々呂範に金の無心をしたが、呂範は必ず孫策の許可を求め、孫権には好き勝手に金を使わせなかったと言う。孫権はこのことから初め呂範を嫌っていたが、後に孫権が当主となると、呂範の節度を大いに褒めて信任したという。逆に、当時孫権のために帳簿を書き換えしていた人物は、その当時こそ孫権に気に入られたものの、後に「勝手に帳簿を書き換える人間など信用できない」ということであまり重く用いられなかった。忠実さを評価されて、信任される理由の一つとなった。また[[厳シュン|厳畯]]には、孫権が[[魯粛]]と呂範を重用しすぎるのではないかと疑問視されていたが、孫権は[[皇帝]]になった後、改めてそれを否定したため、厳畯も納得するようになったという。孫権が厳畯と討論した際、呂範を光武帝の功臣の呉漢に準えている。(『江表伝』)
 
また[[厳シュン|厳畯]]には、孫権が[[魯粛]]と呂範を重用しすぎるのではないかと疑問視されていたが、孫権は[[皇帝]]になった後、改めてそれを否定したため、厳畯も納得するようになったという。孫権が厳畯と討論した際、呂範を光武帝の功臣の呉漢に準えている。(『江表伝』)
 
== 三国志演義 ==
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