「雲芸和議」の版間の差分

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石見での形勢が逆転した毛利氏は和睦を破棄し、永禄5年([[1562年]])には出雲侵攻に乗り出し、西出雲国人[[三沢氏]]・[[三刀屋氏]]・[[赤穴氏]]・[[米原氏]]が毛利氏に寝返り優勢となるも、義久がこの対抗策として北九州の大大名である[[大友義鎮|大友宗麟]]と同盟を結んだことや、東出雲・伯耆・備中・美作の尼子方が結束して毛利氏に反発したことから、この遠征に4年間費やすこととなった。
 
その後も、足利義輝は雲芸に加えて豊(大友宗麟)を含めた3者の和議を模索しているが、[[月山富田城]]を目前とした元就は消極的であった。しかし、月山富田城の攻防が間近になった以上、雲芸和議の再開は現実的ではないとみた義輝、同様に尼子との挟み撃ちは現実的ではないとみた宗麟の思惑によって芸豊和議へと方向転換され、毛利隆元の急死などもあって交渉は遅延したものの、永禄7年([[1564年]])7月になって芸豊和議が実て大友氏は毛利・尼子両氏の争いからは手を引いた{{Sfn|宮本|1974b}}
 
更には伯耆・備中が失陥したことで義久は居城である月山富田城が孤立し、永禄9年([[1566年]])に降伏した。