「カリビアンシリーズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
15行目:
 
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
=== 主催団体の設立 ===
カリビアンシリーズは1949年2月に、[[キューバ]]、[[パナマ]]、[[プエルトリコ]]、[[ベネズエラ]]の4か国・地域が参加して初開催された。この4か国が集う背景にはふたつの出来事があった。ひとつは[[メキシコ]]の[[メキシカンリーグ|夏季リーグ(メキシカンリーグ)]]による[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグベースボール(MLB)]]からの選手引き抜き、もうひとつは[[ジャッキー・ロビンソン]]のMLB入りである<ref name="origenserie">Tony Piña Cámpora, "[https://listindiario.com/el-deporte/2015/02/08/355481/origen-de-la-serie Origen de la Serie]," ''[[:es:Listín Diario|Listín Diario]]'', 8 de febrero de 2015. 2019年2月28日閲覧。</ref>。
21 ⟶ 20行目:
[[アメリカ合衆国]]では1901年の[[アメリカンリーグ]]発足により、先行の[[ナショナルリーグ]]と合わせて現在のMLBを構成する2リーグが揃った。両リーグは球界における支配的地位を利用し、選手との契約に[[:en:Reserve clause|保留条項]]を盛り込んで給料を抑制した。安い給料は選手と賭博師との癒着を生み、1919年には[[ワールドシリーズ]]での[[八百長]]事件、いわゆる "[[ブラックソックス事件]]" 発生という事態を招いた。この八百長に関与したとされ球界を追放された[[ジョー・ジャクソン (野球)|ジョー・ジャクソン]]は、年俸が6000ドルを超えたことがなかったとされる<ref>{{Harvnb|シマンスキー他|2006}}、110頁。</ref>。また、この両リーグや資金力で劣る全米各地の[[マイナーリーグ]]はいずれも[[白人]]選手だけで構成され、[[アフリカ系アメリカ人]]など[[有色人種]]の選手に門戸を閉ざしていた。有色人種の選手たちは独自に "[[ニグロリーグ]]" を立ち上げたが、こちらは経済的にはMLB以上に厳しいものだった。1932年に[[サチェル・ペイジ]]が[[ピッツバーグ・クロフォーズ]]入団の際に提示された月給は700ドルで、これはニグロリーグでは「破格」の条件だった<ref>{{Harvnb|佐山|1994}}、81-85頁。</ref>。こうした状況下、白人選手も有色人種の選手もさらなる収入を、さらに有色人種の選手は白人選手と同じ舞台でプレイする機会も求めて、[[カリブ海]]沿岸各地の[[ウィンターリーグ]]に参加するようになった<ref>{{Harvnb|石原|2013}}、47頁。</ref>。
 
メキシカンリーグは首都[[メキシコシティ]]周辺の地方リーグとして1925年に創設され、1940年に[[ホルヘ・パスケル]]の球団買収による参入をきっかけに全国規模のリーグへと成長、1946年にパスケルがリーグ会長に就任するとMLBの選手を引き抜き始めた<ref>[[阿佐智]] 「[http://www.japan-baseball.jp/jp/news/press/20161106_2.html 侍ジャパン強化試合 対戦国紹介〜メキシコ野球の歴史〜]」 『[[野球日本代表|野球日本代表 侍ジャパン]]オフィシャルサイト』、2016年11月6日。2019年2月28日閲覧。</ref>。MLB、およびマイナーリーグ統括団体のナショナル・アソシエーション・オブ・全米プロフェッショナル・ベースボール・野球リーグス(NAPBL)協会({{Lang-en-short|National Association of Professional Baseball Leagues, NAPBL}})から成る "オーガナイズド・ベースボール" は[[タンパリング]]を御法度としていたが、その枠外にいたメキシカンリーグにはオーガナイズド側の規則に従う理由がなかった。メキシカンリーグは例えば、[[セントルイス・カージナルス]]で年俸1万3500ドルだった[[スタン・ミュージアル]]に対し、契約金5万ドル+5年総額12万5000ドルのオファーを出したとされる<ref>[[:en:Bernie Miklasz|Bernie Miklasz]], "[https://www.stltoday.com/sports/baseball/professional/things-to-love-about-the-man/article_12a02ef7-b9d3-5cec-91f8-843d44412f13.html 90 things to love about The Man]," ''[[:en:St. Louis Post-Dispatch|stltoday.com]]'', November 21, 2010. 2019年2月28日閲覧。</ref>。[[MLBコミッショナー]]の[[ハッピー・チャンドラー]]は対抗措置として、メキシカンリーグ移籍選手に5年の追放処分を課すと警告した<ref name="gardella">Thomas S. Mulligan, "[http://articles.latimes.com/1994-10-22/sports/sp-53439_1_major-league He Helped Blaze Free Agents' Trail : Baseball: Gardella challenged the major leagues' antitrust exemption in 1947--and still has second thoughts about the result.]," ''[[ロサンゼルス・タイムズ|latimes]]'', October 22, 1994. 2019年2月28日閲覧。</ref>。結局、ミュージアルや[[ジョー・ディマジオ]]のようなスター選手はMLBに残留したが<ref>Steve Treder, "[https://tht.fangraphs.com/tht-annual-2018/1946-major-league-baseballs-1491/ 1946: Major League Baseball’s 1491]," ''[[:en:The Hardball Times|The Hardball Times]]'', 2018. 2019年2月28日閲覧。</ref>、[[サル・マグリー]]や[[ミッキー・オーウェン]]、[[ダニー・ガーデラ]]といった選手たちがメキシコでのプレイを選択した<ref name="gardella" />。この「野球戦争」と呼ばれた選手争奪戦は、メキシコ側の設備の貧弱さや[[審判員 (野球)|審判員]]の不公正な判定が選手に不評で、さらに十分な観客を集められず収益を得られなかったことから、オーガナイズド側の勝利に終わった<ref>{{Harvnb|石原|2013}}、70頁。</ref>。しかし有期追放処分は覆らず、ガーデラのように[[連邦地方裁判所]]へ訴えを起こす選手も出てきた<ref name="gardella" />。
 
[[File:Happy Chandler - Harris and Ewing Crop.jpg|200px|thumb|[[MLBコミッショナー]]の[[ハッピー・チャンドラー]]は[[MLBコミッショナー]]を{{mlby|1945|d=y}}11月から{{mlby|1951|d=y}}7月まで務めた。彼が[[メキシカンリーグ]]へ移籍した選手に処分を課し、その一方で[[有色人種]]選手のMLB入りを認めたことが、カリビアンシリーズ設立の遠因となった]]
MLBにとって1946年は、[[第二次世界大戦]]終結後初の開幕戦を迎えるシーズンだった。ミュージアルやディマジオらが従軍による1シーズン以上の欠場――といっても彼らは[[ヨーロッパ]]や[[アジア]]の戦地には送られず、[[アメリカ合衆国本土]]や[[ハワイ州|ハワイ準州]]などで兵士向けの壮行野球をしていたが<ref name="etoworlds">Robert Weintraub, "[https://slate.com/culture/2013/04/baseball-in-world-war-ii-the-amazing-story-of-the-u-s-militarys-integrated-world-series-in-hitler-youth-stadium-in-1945.html Three Reichs, You’re Out]," ''[[:en:Slate (magazine)|Slate Magazine]]'', April 2, 2013. 2019年2月28日閲覧。</ref>――から復帰する年であり、ガーデラがメキシカンリーグを新天地に選んだのも、[[ジョニー・マイズ]]の復員による出場機会喪失の恐れが背景にあった<ref name="gardella" />。この大戦で、有色人種のアメリカ人が白人とともに[[アメリカ軍]]の兵士として戦ったことで、人種間の融和を求める声が有色人種だけでなく白人からも挙がるようになった。1945年9月には、[[ヨーロッパ作戦戦域]]の兵士による野球大会の優勝決定シリーズが[[ドイツ]]の[[ニュルンベルク]]と[[フランス]]の[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で行われ、特にニュルンベルクでは5万人近い兵士が観戦に訪れるなかで白人と黒人の混成チームがプレイしたのみならず、優勝チームの祝勝会でも白人と黒人が隔離されず同じ席で食事をとった<ref name="etoworlds" />。また同年、チャンドラーはコミッショナーに就任すると「黒人青年が、[[沖縄戦|沖縄]]や[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル]]で立派にやれたのなら、野球界でも立派にやれるだろう」と述べた<ref>{{Harvnb|佐山|1994}}、170頁。</ref>。この流れを受け、[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]はロビンソンと[[ジョン・ライト (野球)|ジョン・ライト]]の2選手と契約、1946年に傘下マイナーリーグでプレイさせたのち、残ったロビンソンを翌1947年にメジャーへ昇格させてデビューさせた。これを機に他球団も、球団によって程度に差があるとはいえ<ref group="*">1947年4月15日にロビンソンがドジャースでデビューすると、その3か月後には[[クリーブランド・インディアンス]]と[[ボルチモア・オリオールズ|セントルイス・ブラウンズ]]が続いた。一方、同年に存在していた16球団のうち、有色人種選手のデビューが最も遅れたのは[[ボストン・レッドソックス]]で、ロビンソンのデビューから12年後の1959年まで待つこととなる。</ref>、有色人種選手の採用に動き始めた。
 
33 ⟶ 32行目:
セリエ・インテラメリカーナの成功に触発されたのが、同じベネズエラ人実業家の[[パブロ・モラレス・ペレス]]と[[オスカル・プリエト・オルティーズ]]である。ふたりは以前から球界に携わっており、1942年10月には強豪球団[[ナベガンテス・デル・マガリャーネス]]とセルベセリア・カラカスの初対戦を、コラオとの協力により実現させた<ref name="cerveceria" />。またモラレスは、1946年から1947年にかけて[[国際野球連盟|国際アマチュア野球連盟]]の会長を務めた経験を持つ<ref group="*">のちの1951年から1952年にかけて2期目も務めた。</ref>。ふたりは、カリブ海沿岸各地の[[ウィンターリーグ]]王者を集める大会の構想を練り上げた。この構想は、CBPC設立前の1948年1月にアメリカ合衆国[[フロリダ州]][[マイアミ]]で開かれた会合において提案され、設立後の同年8月に[[キューバ]]の首都[[ハバナ]]で開かれた会合において採用されることが決まった<ref name="origenserie" />。
 
1948-49シーズンのCBPC加盟各国・地域ウィンターリーグを制したのは、以下の4球団だった。
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* {{Flagicon|CUB}} [[アラクラーネス・デル・アルメンダーレス]]
* {{Flagicon|PUR}} [[インディオス・デ・マヤグエス]]
{{Col-2}}
* {{Flagicon|PAN}} [[スパーコーラ・コロナイツ]]
* {{Flagicon|VEN1930}} セルベセリア・カラカス
{{Col-end}}
 
[[File:Monte Irvin 1953.jpg|200px|thumb|[[モンテ・アーヴィン]]は{{mlby|1949|d=y}}、[[ニグロリーグ]]の[[ニューアーク・イーグルス]]からMLBの[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ジャイアンツ]]へ移籍した。この年のMLBでの年俸が5000ドルだったのに対し、シーズン開幕前に出場した[[1949年のカリビアンシリーズ|第1回カリビアンシリーズ]]6試合の出場給は2000ドルにのぼったという<ref>Juan Vené, "[https://www.milenio.com/opinion/juan-vene/en-la-pelota/serie-caribe-1949-monte-irvin-pasquel Serie del Caribe 1949 Monte Irvin y Pasquel]," ''[[:es:Milenio (periódico)|Milenio]]'', 5 de febrero de 2017. 2019年3月10日閲覧。</ref>]]
この4球団が1949年2月20日、ハバナのグラン・エスタディオ・デル・セロ(のちの[[エスタディオ・ラティーノアメリカーノ]])に集結し、[[1949年のカリビアンシリーズ|第1回カリビアンシリーズ]]が開幕した。開会式にはアメリカ合衆国からもオーガナイズド・ベースボールの重役が出席し、MLBコミッショナー事務局のウォルター・マルブリーがCBPCの旗を掲揚、NAPBL会長[[ジョージ・トラウトマン]]が[[始球式]]を務めた<ref name="sabrcbpc" />。初日の第1試合はインディオス・デ・マヤグエスとスパーコーラ・コロナイツの対戦で、インディオスの[[先発投手]][[ウィルマー・フィールズ]]が第1球を投じ、大会初[[安打]]はコロナイツの[[中堅手]][[レオン・トレッドウェイ]]が初回表に記録した<ref name="sdcfirsts">Bienvenido Rojas, "[https://www.diariolibre.com/deportes/del-almendares-en-el-cerro-a-villa-clara-en-isla-margarita-BKDL460331 Del Almendares en El Cerro a Villa Clara en Isla Margarita]," ''[[:es:Diario Libre|Diario Libre]]'', 30 de enero de 2014. 2019年3月10日閲覧。</ref>。この試合は乱打戦となり長引いたため、第2試合の開始が遅れないように8イニングで打ち切られ、コロナイツが13-9で勝利した<ref name="sabrcbpc" />。続く第2戦では、セルベセリア・カラカスの[[ダルミーロ・フィノル]]が4回裏に大会第1号の[[本塁打]]を放ったが、セルベセリアの得点はこの本塁打による1点にとどまり、地元キューバのアラクラーネス・デル・アルメンダーレスが16-1の大勝を収めた<ref name="sdcfirsts" />。大会は25日までの6日間、各球団が総当たり2回の計6試合を行い、アラクラーネスが全勝で初代王者となった。投手の[[アガピト・マヨール]]が3勝を挙げて[[:en:Caribbean Series Most Valuable Player|シリーズMVP]]を受賞、打者では[[モンテ・アーヴィン]]が2本塁打・11[[打点]]の活躍を見せた<ref>Sigfredo Barros Segrera, "[http://www.granma.cu/temas-beisboleros/2019-01-31/1949-1960-cuba-manda-31-01-2019-21-01-34 1949-1960: Cuba manda]," ''[[グランマ (新聞)|Granma]]'', 31 de enero de 2019. 2019年3月10日閲覧。</ref>。観客動員面では6日間全て満員とはいかなかったものの、トラウトマンは今大会を成功と評価した<ref name="sabrcbpc" />。
 
=== キューバ革命以後 ===
{{節スタブ}}
キューバで1959年に[[キューバ革命|革命]]が発生し、[[フィデル・カストロ]]政権によってプロスポーツ制度が廃止された影響で、1961年から1969年までは大会が中止された。1970年からはプエルトリコとベネズエラに[[ドミニカ共和国]]を加えた3か国・地域で大会を再開。翌年からは[[メキシコ]]が加わり、4か国・地域体制となった。
 
311 ⟶ 325行目:
 
== 外部リンク ==
* [http://www.seriedelcaribe.net/ Confederación de Béisbol Profesional del Caribe]{{es icon}}
* [http://mlb.mlb.com/mlb/events/winterleagues/league.jsp?league=cs MLB.com]{{en icon}}
* [http://espndeportes.espn.com/serie-del-caribe/ ESPNDeportes]{{es icon}}
 
{{国際野球}}