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m (美郷町曖昧さ回避)
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天文24年([[1555年]])、[[北郷氏]]の豪傑・亀沢豊前を討ち取る。これ以降、武名を知られ、伊東氏の飫肥攻めで活躍した。
 
[[天正]]5年([[1577年]])伊東氏没落際は飫肥におり、[[豊後国|豊後]]退去には遅れて従えなかったが、翌天正6年([[1578年]])に豊後へ逃れ、[[伊東義祐]]・[[伊東義賢|義賢]]の命を受けて[[日向国|日向]]に潜行、情報収集などを行う。同年9月には[[木城町|石城]]で島津軍との激戦となり、負傷。そのため[[美郷町 (宮崎県)|神門城]]に詰めて傷の治療をしており、[[耳川の戦い]]には参加できなかった。
 
伊東氏が[[伊予国|伊予]]に渡ったあとは大友氏に仕えた。天正14年([[1586年]])には[[佐伯惟定]](宗天)と協力して[[栂牟礼城]]を守り、った。また[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の[[九州征伐]]軍に参加し、奮戦[[島津家久]]の軍を破ったという。九州征伐後、[[伊東祐兵]]が旧領の飫肥に復たため、大友家を辞して伊東家に復帰、[[日南市|酒谷城]]主となる。この時、[[大友宗麟]]から餞別として色々威腹巻を贈られた。
同年9月に[[木城町|石城]]で島津軍との激戦となり、負傷。そのため[[美郷町 (宮崎県)|神門城]]に詰めて傷の治療をしており、[[耳川の戦い]]には参加しなかった。
 
[[関ヶ原の戦い]]では伊東氏は東軍につき、山田宗昌は[[黒田如水]]の示唆で日向国内の西軍方と戦った。山田氏はその後、[[飫肥藩]]の重臣家となり、日向記ト翁本を編集した[[山田宗武]]などを輩出したする
伊東氏が[[伊予国|伊予]]に渡ったあとは大友氏に仕えた。天正14年([[1586年]])には[[佐伯惟定]](宗天)と協力して[[栂牟礼城]]を守り、また[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]軍に参加し、奮戦した。
 
なお、伊東家臣の山田氏は「都於郡四天衆」と呼ばれた日向都於郡土着の豪族の一で、薩摩山田氏とは系統を異にする。
九州征伐後、[[伊東祐兵]]が旧領の飫肥に復したため、大友家を辞して伊東家に復帰、[[日南市|酒谷城]]主となる。
この時、[[大友宗麟]]から餞別として色々威腹巻を贈られた。
[[関ヶ原の戦い]]では伊東氏は東軍につき、[[黒田如水]]の示唆で宮崎の西軍方と戦った。
 
山田氏はその後、[[飫肥藩]]の重臣家となり、日向記ト翁本を編集した[[山田宗武]]などを輩出した。
なお、山田氏は「都於郡四天衆」と呼ばれた日向都於郡土着の豪族の一で、薩摩山田氏とは系統を異にする。
 
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