「遣唐使」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
223.218.245.205 による 2019年2月17日 (日) 20:30 (UTC)時点の版へ差し戻し 荒らし
誤字修正:栗田→ 粟田
40行目:
|align="center"|7||天智8年<br />([[669年]])||不明||[[河内鯨]](大使)|| || ||唐に高句麗平定の祝賀を述べる。第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか?
|-
|align="center"|8||大宝2年<br />([[702年]])||慶雲元年<br />([[704年]])||[[粟田真人]](執節使)・[[高橋笠間]](大使、赴任せず)・[[坂合部大分]](副使、のち大使)・[[巨勢邑治]](大位、のち副使)||[[山上憶良]](少録)・[[垂水広人]](大[[訳語|通事]])・[[道慈]]||align="center"|4|| 701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任([[大安寺]]造営)に充てられ渡航せず、参議となっていた粟田を大使として出立。701年の出立の際に粟田は[[文武天皇]]から[[節刀]]を授けられた。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。またはじめて対外的に「日本」の国号を使用し、首都([[藤原京]])を定めたこと、大宝律令を制定したことを示し、国としての体裁を上昇させた上で、[[白村江の戦い]]以来の正式な国交回復を目的としていた。この目的のため、朝廷での格が高く、大宝律令の編纂に関わった田が使節として派遣された。楚州に到着し、どこからの使者か、の問いに「日本」と返答。当時、唐は武則天の簒奪により周王朝となっていたが、これを把握し切れていなかった遣唐使一行は混乱するも、703年に武則天(則天武后)と謁見。田真人らは慶雲元年(704年)7月、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて[[五島列島]][[福江島]]に漂着帰国。副使巨勢邑治は残留し707年3月に帰国。大使の坂合部大分も残留し、次の遣唐使の帰国船に同行。この遣唐使が唐の地で実運用されている律令制や都市作りを実際に目の当たりにしたことが、大宝律令の修正や貨幣鋳造([[和同開珎]])などの[[慶雲の改革]]、[[平城京]]遷都などに繋がった。また、無事往復に成功した田真人の乗船「佐伯」に対し、従五位下の位が授けられた。
|-
|align="center"|9||養老元年<br />([[717年]])||養老2年<br />([[718年]])||[[多治比縣守]](押使)・[[大伴山守]](大使)・[[藤原宇合|藤原馬養(藤原宇合)]](副使)||残留 [[阿倍仲麻呂]]・[[吉備真備]]・[[玄ボウ|玄昉]]・[[井真成]]・[[羽栗吉麻呂]](阿部仲麻呂の従者)||align="center"|4|| 前回の倍以上となる総勢557人。霊亀2年(716年)8月に縣守が押使に任命され、翌霊亀3年(717年)3月に節刀を授けられている。よって出発は以降の日付となり、南路を選択したと推測されている。716年9月、[[阿倍安麻呂]]に代えて大伴山守が遣唐大使となる。717年10月1日長安着。残留した留学生を除き、翌年の養老2年(718年)10月に使節は全員無時に大宰府に帰還。道慈も帰国。同年12月に県守は朝廷に復命。翌年正月10日、帰国した一同が唐で与えられた朝服で天皇に拝謁。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。