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=== 死の影響 ===
宗綱の死後、嫡子の無かった佐野氏は宗綱の弟(叔父とも)である[[佐野房綱]](天徳寺宝衍)や[[山上道及]]ら「佐竹氏から養子を迎えよう」とする重臣と、「北条氏から養子を迎えよう」とする反対派の重臣に分かれて対立した。これを知った北条氏は翌天正14年(1586年)8月に唐沢山城を占拠、佐野氏は北条氏から[[北条一族氏康]]の子の[[北条氏忠]]を養嗣子として迎え入れ、佐野氏忠を名乗らせて家名を保つこととなった。以降も佐野氏は一応の独立性を維持してはいたが、事実上北条氏に勢力を吸収された形となった。以後、佐野氏は反北条勢力の跋扈する[[下野国]]攻略の北条方拠点として重要視される事となる。また、房綱ら反北条氏方であった重臣らは佐野氏を出奔した。
 
天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]にて北条氏が没落し、氏忠も実家の北条氏と共に失領したため佐野氏は一旦断絶したが、前述の宗綱の死後に出奔した房綱は豊臣秀吉に仕えており、小田原征伐で功を挙げたため、房綱の元に佐野氏は再興されている。