「考烈王」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
[[頃襄王 (楚)|頃襄王]]の子として生まれ、太子に立てられた。[[紀元前272年]]に楚が[[秦]]と和平を結んだ時、人質として秦に入った。紀元前263年、父の頃襄王が病に倒れると、太子の完は帰国して王位を継ごうと考えた。だが、秦の[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]はこれを許さなかった。そこで侍従の[[春申君|黄歇]]の策により、髭を剃って変装して密かに秦を脱出し、帰国して楚の王位に就いた。これを聞いた昭襄王が激怒したが、黄歇の死を賭した態度に感服し、代わりに太子完の弟の[[昌文君|公子顛([[昌文君]]を人質として要求したことで丸く収まり、黄歇は帰途を許された<ref>李開元の『末代楚王史跡鉤沈』</ref>。考烈王はこの功により黄歇を[[令尹]]に任じ、淮北の地12県を与えた。これより黄歇は「[[春申君]]」と号した。
 
[[紀元前259年]]、秦が[[趙 (戦国)|趙]]を攻め寄せてきたとき、趙の[[公子]]・[[平原君]](趙勝)と講和を結ぶ対談をしたが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って講和がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の[[食客]]の[[毛遂]]は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の[[白起]]は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ、毛遂の働きかけで、楚と趙の盟約が成立した。[[紀元前241年]]、東方の寿春に遷都した。