「辛亥革命」の版間の差分

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==== 新軍兵士 ====
[[1908年]]以降、革命派の革命運動は群集運動から新軍内の同調者獲得に重点が移り、革命人士は新軍内で秘密裡に革命思想の普及に努めた。科挙制度の廃止により多くの青年知識人が新軍に加盟しており、文学者社長の蒋翊武を初め[[劉澄]]、[[詹大悲]]、[[王憲章]]、[[張廷輔]]、[[蔡大輔]]、[[王文錦]]などが当時の新軍内部のメンバーであった。
 
==== 士紳及び商紳 ====
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1911年[[9月24日]]、文学社と共進会は武昌で双方の責任者と新軍代表60余名で会議を開催、武装蜂起の統一指揮部(起義総指揮部)を組織、文学社の[[蒋翊武]]が総指揮に、共進会の[[孫武 (清末民初)|孫武]]が参謀長に、同じく共進会の[[劉公]]が政治準備局総理に選出された。起義総指揮部は武昌小朝街85号文学社機関に、準備局は[[漢口租界|漢口ロシア租界]]宝善里14号に設置され、1911年10月6日(旧暦8月15日)に武装蜂起が確認されたが、準備不足により10月16日に延期された。
 
[[10月9日]]、孫武はロシア租界で爆弾を製造している際に爆発事故が発生、孫武が負傷、ロシア当局の調査を逃れるために逃亡したが、武装蜂起の文書や旗などが押収され、秘密工場の隣に居住していた劉公自宅より劉公の弟である劉同が連行された。[[湖広総督]][[瑞]]がこの事件の発生を知るや全市に警戒命令を発し、革命党関係者の逮捕に当った。文学社の蒋翊武は清朝当局の動きを知り、予定を早めて武装蜂起を決定、各方面に文書を送付した。9日夜、[[彭楚藩]]、[[劉復基]]が起義総指揮部で逮捕、[[楊宏勝]]が弾薬輸送中に逮捕され、[[10月10日]]深夜に3名は斬首されている。
 
[[File:Wuchangqiyi paobing.JPG|left|200px|thumb|武昌起義での革命軍砲兵]]