「後水尾天皇」の版間の差分

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Aimai88 (会話 | 投稿記録)
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天皇が即位すると[[大御所 (江戸時代)|大御所]]・徳川家康は孫娘・[[徳川和子|和子]]の入内を申し入れ、慶長19年([[1614年]])4月に入内[[宣旨]]が出される。しかし、入内は[[大坂の陣]]や[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])の家康の死去、後陽成院の[[崩御]]などが続いたため延期された。元和4年([[1618年]])には女御御殿の造営が開始されるが、天皇と寵愛の女官・[[四辻与津子]]との間に皇子・皇女が居た事が[[徳川秀忠]]に発覚すると入内は問題視される、翌元和5年([[1619年]])9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた[[武家伝奏]]・[[広橋兼勝]]と共にこれを追及した。そして[[万里小路充房]]を宮中の風紀の乱れの責任を問い[[丹波国]][[篠山藩|篠山]]に配流、与津子の実兄である[[四辻季継]]・[[高倉嗣良]]を[[豊後国]]に配流、更に天皇側近の[[中御門宣衡]]・[[堀河康胤]]・[[土御門久脩]]を出仕停止にした。これに憤慨した天皇は[[譲位]]しようとするが、幕府からの使者である[[藤堂高虎]]が天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した([[およつ御寮人事件]])。元和6年([[1620年]])6月18日に和子が[[女御]]として入内すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。
 
[[寛永]]2年(1625年)11月13日には皇子である[[高仁親王]]が誕生する。寛永3年([[1626年]])10月25日から30日まで[[二条城]]への行幸が行われ、徳川秀忠と[[徳川家光|家光]]が上洛、拝謁した。寛永4年(1627年)に[[紫衣事件]]、家光の乳母である福([[春日局]])が無位無冠の身でありながら[[朝廷]]に参内する([[金杯事件]])など天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は寛永6年(1629年)[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王([[明正天皇]])に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。この事を事前に知られていたのは腹心の中御門宣衡のみであったとされる(『時慶卿記』寛永6年11月8日条)<ref>山口和夫「生前譲位と近世院参衆の形成」『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P154</ref>。一説には病気の天皇が治療のために[[灸]]を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために譲位して治療を受けたと言われているが(かつての[[皇国史観]]のもと、[[辻善之助]]の研究など代表さも見られる「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗としての譲位」という([[辻善之助]]に代表される)通説への対論となる[[洞富雄]]の説<ref>[[熊倉功夫]] 『後水尾天皇』 [[中公文庫]] ISBN 978-4122054042、104p</ref>)、天皇が灸治を受けた前例([[高倉天皇|高倉]]・[[後宇多天皇|後宇多]]両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている。その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、[[後花園天皇]]の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『[[康富記]]』嘉吉2年10月17日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する<ref>井原今朝男 『中世の国家と天皇・儀礼』 校倉書房、2012年 ISBN 978-4751744307、p.169</ref>。また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった<ref>熊倉、107p</ref>。
 
以後、[[霊元天皇]]までの4代の天皇の後見人として[[院政]]を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年([[1634年]])の将軍・徳川家光の[[上洛]]をきっかけに認めることになる<ref>[[九条道房]]の日記 『道房公記』 寛永14年12月3日条</ref>。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から[[後光明天皇|後光明]]・[[後西天皇|後西]]・霊元の3天皇の生母([[園光子]]・[[櫛笥隆子]]・[[園国子]])に対する[[女院]]号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親([[園基任]]・[[櫛笥隆致]]・[[園基音]])への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政」の否定を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢<ref group="注釈">[[野村玄]]は徳川家の当主が秀忠(大御所)から家光(将軍)に代わったことで協調政策に転じるとともに、明正天皇(幼少の女帝)の登場による朝廷内の混乱の責任を後水尾上皇(問題を起こした当事者)に負わせようとしたことを指摘している(野村、2006年、p.296-298ほか)。</ref>とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の[[議奏]])に対して[[延宝]]7年([[1679年]])に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。