「加藤泰興」の版間の差分

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== 概要 ==
慶長16年(1611年)、当時[[米子藩]]主であった加藤貞泰の居所、[[米子市|米子]]にて生まれる。[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])、父の死去により跡を継ぐ。このときに弟の[[加藤直泰]]への1万石分与の内諾を得た。元和10年([[1624年]])に出羽守に補任される。家臣団編成や軍備強化など、藩政の確立と強化に尽力した。また、[[大坂城]]や[[江戸城]]の改修、[[仙洞御所]]の普請工事、[[蒲生忠知]]([[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]])[[改易]]や[[生駒高俊]]([[讃岐国|讃岐]][[高松藩]])改易、[[山崎治頼]](讃岐[[丸亀藩]])改易による城の在番などの公役をよく務めている。[[盤珪永琢]]に教えを受け、[[寛文]]7年([[1667年]])に[[福田寺(伊予市)|福田寺]]を創建し、山林を寄進した。
 
また、[[備中国|備中]][[足守藩]]主・[[木下利当]]より[[淡路流|淡路流槍術]]を学び、加藤家伝流を開き、槍遣いの達人と称された。