「共和国宮殿」の版間の差分

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かつて[[シュプレー川]]の中州には[[ベルリン王宮]]があったが、[[1945年]]の[[ベルリン空襲|空襲]]と[[ベルリン市街戦]]で大きく破壊された。その廃墟は修復可能ではあったものの、東ドイツ政府によってプロイセン[[軍国主義]]のシンボルであるとされ[[1950年]]に爆破解体された。王宮南側のシュロスプラッツ、北側の[[ルストガルテン]]、その中間の王宮跡地はともに舗装され、[[1951年]]から[[1994年]]までマルクス・エンゲルス広場({{lang|de|Marx-Engels-Platz}})の名で呼ばれ[[パレード]]などの会場として使用されていた。
 
ベルリン都心にできた空地をめぐり、[[1950年代]]前半には東ドイツによる超高層の政府ビル案もあったが実現には至らなかった。[[1950年代の建築|1958年]]に[[西ドイツ]]政府が世界の建築家を招いて開いた将来の「首都ベルリン」をテーマにした[[建築設計競技]]ではこの一帯を文化ゾーンとする案が評価され、これに対抗して東ドイツ政府が開いた独自の建築設計競技では一帯を政治の中心とする案が出された。
 
[[1960年代]]から王宮跡地のうち東半分に政府ビルの建設が計画され、ハインツ・グラフンダー({{lang|de|Heinz Graffunder}})他5名の建築家の設計により[[1973年]]から3年にわたる工事の末、[[1976年]][[4月23日]]に共和国宮殿のオープンが祝われた。東ドイツの一般的で簡素な建築様式で設計された共和国宮殿は、南北の長さ180 m、東西の幅85 m、高さ32 m で6階建ての、白い大理石にブロンズミラーガラス張りの外観であり、中は大ロビーに吊るされた1001個のランプを筆頭に白く輝く大理石の華やかな内装が行われていた。北側の小ホールは人民議会の議場として使われ、一方幅67m・高さ18mの六角形の大ホールは[[ドイツ社会主義統一党]]党大会や国家的行事のほか、劇・コンサート・テレビ番組の公開収録などに使われ、可動式の天井や壁により大人数から少人数まで多様な用途に利用できた。大ロビーなどは東ドイツの芸術家たちの作品で飾られた。