「コンスタンティヌス2世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
4行目:
 
== 略歴 ==
皇帝[[コンスタンティヌス1世]]とファウスタ([[マクシミアヌス]]帝の娘)の間に長男(コンスタンティヌス1世には前妻ミネルウィナとの間に長男[[クリスプス]]がいる為、コンスタンティヌス1世から見れば次男)として生まれるが、母親は不義密通の罪で処刑された。[[宦官]]が取り仕切る宮廷内で他の2人の兄弟とともに育てられる。一説に実母はファウスタではなく、実父の妾だった女性とも言われている。また、父の前妻ミネルウィナを実母とし、クリスプスの同母弟とする文献もあるが歴史家の間では否定的である。いずれにしても、この2つの説を採用する場合、[[コンスタンティウス2世]]と[[コンスタンス1世]]は異母弟にあたることになる。
 
337年、21歳の時、父コンスタンティヌス1世が死去しその葬儀が[[コンスタンティノープル]]で行われたが、滞在地の距離から参加しなかった。葬儀のしばらく後で、コンスタンティノープルにいる親族は[[粛清]]された(首謀者はおそらく次男コンスタンティウス2世)。その後、3人の兄弟は会談を行い、揃って即位した。コンスタンティヌス2世は帝国全土に及ぶ権威を有していたが、実際には3人が独立君主として政治を行った。コンスタンティヌス2世は[[ブリタンニア]]、[[ガリア]]、[[ヒスパニア]]を統治していたが、三弟コンスタンス1世に北アフリカの領土の分割を要求した。拒否されたためアルプスを越えて、弟の領土へ攻め込んだ。340年春、北イタリアへ侵攻するが、事前の準備が不十分だったことから[[アクィレイア]]近くで行われた戦闘で捕らえられ、殺害された。治世は僅か3年で23歳だった。