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'''幽繆王'''(ゆうぼくおう、'''幽穆王'''、生没年不明、在位[[紀元前236年]] – [[紀元前228年]])は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[趙 (戦国)|趙]]の王。[[姓]]は'''
==生涯==
[[紀元前234年]]、[[秦]]軍は平陽(現
[[紀元前233年]]、幽繆王は[[李牧]]を大将軍に任じて反撃に転じ、秦軍を宜安(現
その後も李牧は[[司馬尚]]([[司馬ゴウ|司馬卬]]の父)とともにたびたび秦軍を撃破した。苦戦した秦は李牧を排除すべく、趙の臣[[郭開]]に多額の賄賂を贈って、李牧と司馬尚が謀反を企んでいると幽繆王に讒言させた。幽繆王はこれを信じて、李牧を誅殺し、司馬尚を更迭した([[紀元前229年]])<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref><ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1023 趙世家第十三]</ref>。[[趙葱]]と斉将・[[顔聚]]がその地位に代わった<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref>。
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[[紀元前228年]]、李牧誅殺の3か月後に王翦が趙葱、顔聚を破り<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1023 趙世家第十三]</ref>、秦軍は[[邯鄲]]を占領した<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/996 六國年表第三]</ref>。幽繆王は東陽へ逃げたが、王翦、[[羌カイ|羌瘣]]にその地も平定され、捕らえられた<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/978 秦始皇本紀第六]</ref>。なお、邯鄲が陥落したときに捕虜となったとする説もあれば<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/996 六國年表第三]</ref>、顔聚とともに捕虜になったとする説もある<ref>[http://www.chineseclassic.com/content/1200 卷二十一 趙策四]</ref>。
その後、王は房陵に流され、趙は滅亡した。だが、趙の公子嘉(幽繆王の異母兄)は[[代郡|代]](現
== 脚注 ==
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