「比叡 (戦艦)」の版間の差分

参考文献1件追加。
(吉田の見解の情報源を古い出典に統合。西田艦長のメモを追記。参考文献を筆者五十音順に整理。)
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時雨等による魚雷処分直前の午後4時38分、阿部中将に山本司令長官より「比叡の処分待て」の命令がある<ref>[[#海軍驕り]]p.127、[[#11戦隊詳報(5)]]pp.17,40</ref><ref name="叢書(83)374" />。これを受けて第27駆逐隊司令駆逐艦(時雨)に雷撃中止命令が出た。この少し前、トラック島の戦艦大和の連合艦隊司令部では比叡処分を巡って対立があった。宇垣の『戦藻録』によれば、比叡は味方航空機行動圏内にいることから、宇垣は放置して様子を見ることを考えていた<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.233、[[#怒りの海]]p.204</ref>。すると山本長官が宇垣の部屋を訪れ『如何にも明日の撮影に依り宣伝の国米国に利用せらるる事心苦し。サインはしたるも如何かと思ふ』との心中を述べた<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#海軍驕り]]p.127、[[#吉田比叡]]p.252</ref>。宇垣は山本長官の提案に同意して比叡の処分を決定しかけたが、黒島先任参謀が「比叡が浮いている限り輸送船団に対する攻撃を吸収する可能性がある」と反論した<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#海軍驕り]]p.127、[[#吉田比叡]]p.253</ref>。山本長官は黒島の主張を採用し、比叡の処分命令を撤回したのである<ref>[[#海軍驕り]]p.128、[[#吉田比叡]]p.253</ref>。宇垣は「中将たる司令官の意思を酌み長官の立場に於て其の責を引受くるの心情及敵手に委して機密暴露の惧を来たす事なからしむるの用心ある事なり。先の見えざる主張は理屈に偏して之等機微の点を解し得ざるものあるのみ」と記した<ref>[[#戦藻録(九版)]]p.234、[[#海軍驕り]]p.128、[[#怒りの海]]p.208</ref>。第十一戦隊参謀として現場(駆逐艦雪風)にいた[[千早正隆]]は「宇垣は現場の事情を少しは理解しているが、黒島は全く理解していない」と評している<ref>[[#海軍驕り]]p.128</ref>。
 
実際に魚雷が発射されたかについては、[[戦闘詳報]]には記載されていない。「西田は雪風の艦内で魚雷発射音を聞いている」との見解は[[吉田俊雄]](元軍令部参謀で、第3次ソロモン海戦には参加していない)の昭和31年の著書『海戦』による<ref>[[#吉田海戦]]p.166-168</ref>。また「雪風が魚雷2本を発射した(が比叡は沈むを肯んぜぬ)」は同じく吉田の昭和41年の著書『軍艦十二隻の悲劇』による<ref>[[#軍艦十二隻]]p.98</ref>。吉田は昭和48年の著書『戦艦比叡』でも比叡沈没に際し『海戦』と同様の場面を書いたが<ref>[[#吉田比叡新装]]p.293</ref>、この頃の吉田は比叡のキングストン弁が開放されたかについて確信を持っていなかった{{refnest|[[#吉田比叡新装]]p.305<ref group="注釈">著者あとがきに「比叡沈没に先立って、ほんとうにキングストン弁を開いたかどうか、多少の疑問が残っている。」とある。</ref>}}。しかし吉田は平成7年の著書『日本帝国海軍はなぜ敗れたか 戦後五十年目の総括』の中で「比叡はキングストン弁開放による自沈」と記し、「比叡は雷撃処分により沈められた」と言う見解を翻した<ref>[[#日本帝国海軍はなぜ敗れたか]]p.292</ref>。
 
一方、[[豊田穣]]は、柚木発令所所長から「注水弁開けの命令が下され、作業を行った兵からも実行を確認したので、間違いない」という証言を得て、昭和52年の著書『四本の火柱』で「比叡の自沈は注水弁開放による」と記した<ref>[[#四本火柱]]p.174-175</ref>。
西田艦長が[[戦闘詳報]]の草稿として作成したメモ(作成日は第三次ソロモン海戦から一週間後の11月20日)には、「雪風に収容された後、GF司令部から「比叡の処分待て」の命令があり、それならば比叡に帰還すべきと申し出たが許されず、遂に比叡をそのままとして海域を離れた」とあり、比叡の雷撃処分は実行されていないと記録されている<ref>[[#悲劇の艦長]]p.188-194</ref>。雪風の水雷員兼暗号担当<ref>[[#よもやま物語]]163頁</ref>や、同じく比叡を護衛していた照月主計長<ref>[[#海軍主計大尉]]103頁</ref>も連合艦隊からの命令により駆逐艦による比叡の雷撃処分は中止されたと証言しており、これらの証言は第十一戦隊戦闘詳報の記録とも合致している。
 
西田艦長が[[戦闘詳報]]の草稿として作成したメモ(作成日は第三次ソロモン海戦から一週間後の11月20日)には、「雪風に収容された後、GF司令部から「比叡の処分待て」の命令があり、それならば比叡に帰還すべきと申し出たが許されず、遂に比叡をそのままして海域を離れた」とあり、比叡の雷撃処分は実行されていないと記録されている<ref>[[#悲劇の艦長]]p.188-194</ref>。雪風の水雷員兼暗号担当<ref>[[#よもやま物語]]163頁</ref>や、同じく比叡を護衛していた照月主計長<ref>[[#海軍主計大尉]]103頁</ref>も連合艦隊からの命令により駆逐艦による比叡の雷撃処分は中止されたと証言しており、これらの証言は第十一戦隊戦闘詳報の記録とも合致している。
 
午後5時、駆逐艦5隻(雪風、照月、時雨、白露、夕暮)は、ガ島飛行場砲撃にむかう外南洋部隊支援隊(指揮官[[西村祥治]]第七戦隊司令官:[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]]、夕雲、風雲、巻雲、朝潮)と同士討ちすることを避けるため、比叡の傍を離れてサボ島西方に退避した<ref>[[#11戦隊詳報(5)]]p.49</ref><ref name="叢書(83)375">[[#叢書83ガ島戦]]p.375</ref>。放棄時の比叡は右に15度傾斜し、艦尾も沈下していた<ref name="叢書(83)375" />。午後11時ごろ雪風達が戻ると比叡の姿は既になく、沈没したものと判定された<ref>[[#吉田比叡]]p.270、[[#11戦隊詳報(5)]]pp.18,46</ref>。また、同じく比叡が沈んだかどうかの確認と、沈んでいない場合に雷撃処分を行うべく、ショートランドに向かっていた[[伊号第十六潜水艦|伊16]]も比叡が放棄された海域に到着したが、やはり比叡の姿を見つけることはなかった。比叡の戦死者は188名、負傷者は152名だった<ref>[[#吉田比叡]]p.260</ref>。比叡に勤務して『最も好きな軍艦の一つ』としている吉田俊雄は<ref>[[#吉田比叡]]p.272</ref>著作で「比叡の最期は、しかし、たいへん後味の悪いものであった」と述べている<ref>[[#吉田比叡]]p.278</ref>。翌日、金剛型4番艦[[霧島 (戦艦)|霧島]]も[[#第三次ソロモン海戦#11月15日第2夜戦|11月15日第2夜戦]]に参加し、同艦より30年も新しい[[ノースカロライナ級戦艦]][[ワシントン (BB-56)|ワシントン]] (''USS Washington, BB-56'')、[[サウスダコタ級戦艦 (1939)|サウスダコタ級戦艦]][[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]] (''USS South Dakota, BB-57'')と交戦、砲撃戦の末に沈没した<ref>[[#連合艦隊戦艦12隻を探偵する]]105-107頁</ref>。[[金剛型戦艦]]は一度の海戦で4隻中2隻を喪失した。
* {{Cite book|和書|author=[[高松宮宣仁親王]]著|coauthors=[[嶋中鵬二]]発行人|title=高松宮日記 第一巻 {{small|大正十年一月一日〜昭和七年十二月三十一日}}|publisher=中央公論社|year=1996|month=3|ISBN=4-12-403391-5|ref=高松宮日記1巻}}
* {{Cite book|和書|author=[[千早正隆]]|year=1990|title=日本海軍の驕り症候群|publisher=プレジデント社|isbn=4-8334-1385-X|ref=海軍驕り}}
* {{Cite book|和書|author=[[豊田穣]]|year=1977|month=4|title=四本の火柱{{small|比叡・霧島・金剛・榛名}}|publisher=毎日新聞社| ASIN: B000J8UKXU |ref=四本火柱}}
* 豊田 穣 『雪風ハ沈マズ』 株式会社 光人社、1985年
* {{Cite book|和書|author=[[豊田穣]]|year=1999|title={{small|日米海戦記}}撃沈「四本の火柱」|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2234-0|ref=豊田撃沈}}
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