「堀田仁助」の版間の差分

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[[天明]]3年([[1783年]])6月、幕府[[天文方]]属員となり、暦作御用として渋川家を補佐した。[[寛政]]11年([[1799年]])には幕府天文方として東[[蝦夷地|蝦夷]]への直通航路を開拓するため測量を命じられ、完成させる。翌寛政12年([[1800年]])に[[伊能忠敬]]が蝦夷地へ測量を行うが、堀田の航路開拓なしには成し得ないものであったとされる。
 
[[文政]]10年([[1827年]])、81歳にして引退し津和野へ帰藩する。帰藩にあたり際して、天球儀・地球儀・[[伊能図]](小図)を作成、藩主へと献上。
帰藩後は、[[藩校]][[養老館]]助教(藩校教授)となり、多くの若者に関流数学を教授した。先述の藩主献上の品々も併せ[[養老館]]へと貸与され、幕末期の貴重な教育資源となった。
帰藩してから2年後の文政12年(1829年)に長い生涯を閉じた。
 
仁助が制作した天球儀、地球儀、[[伊能図]]小図は[[島根県]]指定の文化財として[[太皷谷稲成神社]]宝物殿に収蔵されている。北海道北岸やオーストラリアやアフリカ、地図の伝わらない・あるいは未測量地域の地形が不正確であるなど、当時の幕府暦局が把握していた世界の姿や星の呼称等(渋川式・中国式)を知る事のできる貴重な史料となっている。