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{{Main|マムルーク朝}}
[[12世紀]]後半にエジプトを支配する[[ファーティマ朝]]を乗っ取って[[アイユーブ朝]]を立てた[[クルド人]]の軍人[[サラーフッディーン]](サラディン)は、ファーティマ朝の兵士に代わって自身の子飼いの兵士からなる信頼できる軍隊を編成するために、クルド人やマムルークを集めて大規模な騎兵軍団を編成した。サラーフッディーンのマムルークが[[十字軍]]との戦いで果たした役割は大きい。
[[File:Siege of Tripoli Painting (1289).jpg|thumb|upright|マムルークの攻撃によるトリポリ(現在の[[レバノン]])の陥落,1289]]
 
サラーフッディーンの死後、アイユーブ朝は彼の諸子・諸弟の支配する多くの政権に分かれることとなるが、その中で主導的な役割を果たしたのは、常に経済的に豊かなエジプトを支配し、その財力によって強力なマムルーク軍団を編成していた[[カイロ]]の支配者であった。[[13世紀]]半ばにエジプトのスルターンであった[[サーリフ]]は、自身の購入したテュルク系のマムルークをカイロ郊外の[[ナイル川]]の中洲に造った兵営に集めて精強なマムルーク軍団を養成し、エジプトからシリアまで広く支配することに成功する。バフリーヤと呼ばれたこの軍団は[[1250年]]の[[マンスーラの戦い (1250年)|マンスーラの戦い]]でエジプトに攻め込んだ[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の率いる十字軍を破るのに大いに活躍し、同年に父のマムルークをないがしろにしたサーリフの遺児を[[クーデター]]により殺害、アイユーブ朝のアイユーブ家に代わるマムルークたちの政権として[[マムルーク朝]]を樹立する。マムルーク朝は[[1260年]]に[[アイン・ジャールートの戦い]]でアッバース朝を滅ぼした[[モンゴル帝国]]の軍隊を破ってモンゴルの西進をシリアで食い止め、イスラム世界の守護者としての地位を確立、エジプトにマムルーク軍人による支配体制を構築する。マムルーク朝のもとでは、マムルークは外来の奴隷出身の支配者階級であった。