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[[Image:A portrait of Takami Senseki by Watanabe Kazan.jpg|thumb|250px| 鷹見泉石像(国宝) 渡辺崋山筆]]
'''鷹見 泉石'''(たかみ せんせき、[[天明]]5年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[1785年]][[8月3日]]) - [[安政]]5年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1858年]][[8月24日]]))は[[江戸時代]]の[[蘭学者]]であり、[[下総国]][[古河藩]]の[[家老]]である。[[諱]]を忠常、[[仮名 (通称)|通称]]を又蔵、十郎左衛門。[[字]]を伯直(はくちょく)。[[号 (称号)|号]]は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)。また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という[[オランダ|蘭]]名も署名に用いている。
 
== 来歴 ==
天明5年([[1785年]])、古河藩の御使番役・鷹見忠徳(250石)の嫡男として[[古河城]]下に誕生する。寛政9年([[1797年]])、調役給仕として出仕して以降、目付、用人上席、番頭格などを経て、[[天保]]2年([[1831年]])に280石の家老(役高500石)へ昇進した。[[譜代大名]]の[[土井氏|土井家]](宗家)は代々[[江戸幕府|幕府]]の要職を歴任しており、[[土井利厚]]・[[土井利位|利位]]父子もまた[[寺社奉行]]や[[大坂城代]]、[[京都所司代]]、[[老中]]などの要職を務めていた。泉石は藩主に近侍して全国各地へ同行し、これら職務の補佐に務めた。「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と言われるほどに、その能力は賞賛を受けた。[[弘化]]2年([[1845年]])に加増されて330石となるが、翌弘化3年([[1846年]])に免職となって古河に[[隠居]]している。安政5年([[1858年]])、古河長谷町の隠居屋敷(現:[[古河歴史博物館]]の鷹見泉石記念館<ref>[https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/lifetop/soshiki/rekihaku/kinenkan.html 鷹見泉石記念館]古河市ホームページ(2019年1月26日閲覧)。</ref>)にて死没。[[享年]]74。墓地は[[茨城県]][[古河市]]の[[正麟寺 (古河市)|正麟寺]]。
 
対外危機意識の高まる中、幕政に当たる譜代大名の重臣という立場から、早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、[[天文学|天文]]、[[暦数]]などの文物の収集に努めた。また[[川路聖謨]]、[[江川英龍]]などの幕府要人、[[渡辺崋山]]、[[桂川甫周]]などの[[蘭学者]]、[[箕作省吾]]などの地理学者、[[司馬江漢]]、[[谷文晁]]ら画家、[[砲術]]家の[[高島秋帆]]、海外渡航者の[[大黒屋光太夫]]、[[足立左内]]、[[潁川君平]]、[[中山作三郎]]ら和蘭[[通詞]]、[[オランダ]]商館長([[カピタン]])の[[スチュルレル]](Johan Willem de Sturler)など、当時の政治、文化、外交の中枢にある人々と広く交流を持って、[[洋学]]界にも大きく寄与した。
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[[Category:蘭学者]]
[[Category:19世紀の学者]]
[[Category:江戸時代の武士]]
[[Category:幕末古河藩の人物]]
[[Category:古河市の歴史]]
[[Category:1785年生]]
[[Category:1858年没]]