「横山ノック」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: 取り消し
116行目:
 
=== 執行猶予満了後、晩年、そして最期 ===
[[2003年]]夏に執行猶予の期間が満了し、芸能活動の再開を模索した。テレビについては同年10月に[[京都放送|KBS京都]]のテレビ番組『[[とっぴもナイト]]』にゲストで出演してもらうという話があったが、各種メディアからの[[バッシング]]や視聴者からの反感が大きかったため、放送が見送られることとなった。その合間に[[立川談志]]の独演会に[[月亭可朝]]と共に楽屋を訪ね、談志から出演を打診されたものの結局断っている。[[2004年]][[11月29日]]には復帰を記念してワッハ上方で「なにをいまさら横山ノック~ノックとその仲間たち~」を開催、一門、喜味こいしらが出演、また元相方青芝フック、弟子の[[横山プリン]]の3人で漫画トリオ時代のネタを披露した(客席には元相方の上岡龍太郎の姿もあった)。その後、[[2006年]][[2月18日]]にバラエティ専門チャンネル・[[EXエンタテイメント]]の『ぜんタネ』(司会は上岡龍太郎の弟子の[[ぜんじろう]])にゲストで出演した。また、[[7月]]には[[ラジオ関西]]の番組にも出演したほか、9月には[[生國魂神社]]の「彦八まつり」に参加、観客の前で漫談を披露した。しかしながらテレビ出演は『ぜんタネ』、舞台は「彦八まつり」が最後となった。
 
[[2007年]]2月に中咽頭[[ガン]]を患っている事が判明し、弟子たちにもガンに侵されている事を告げた。そして「横山という亭号・名前を(後世に)残したい」と言い、復帰に向ける意気込みも見せていたが2007年5月3日7時15分、ノックは中咽頭ガンのため兵庫県[[西宮市]]の病院で死去した。[[享{{没]]75歳齢|1932|1|30|2007|5|3}}。当時の太田府知事は「突然の訃報に大変驚いています。知事在任中には行財政改革の推進などに力を尽くされ、府政の十年にわたる改革の礎をつくられました。今はただご冥福をお祈りするつもりです」とノックの知事時代の功績を称えるコメントを行った。ただ、大阪府はノックに対して強制わいせつ罪の有罪確定により退職金の分割返納を命じており、ノック自身は1期目の退職金を完済していなかったため遺族に約3年分の残額の返納を要求する姿勢を見せた<!-- その後、どうなったか続報知っている方、加筆お願いします。 -->。ノックの死去から一ヶ月たった[[6月7日]]、後輩芸人など有志によって「横山ノックを天国へ送る会」が大阪の[[リーガロイヤルホテル]]で開催され、発起人の一人である上岡龍太郎は「横山パンチ」名義でお別れの会に出席し、献杯の挨拶では「ノックさん、あなたは僕の太陽でした。本当に有難う御座いました」と笑いを交えながらもスピーチし、ノックの遺影に向かって涙声で別れを告げた。司会は『ノックは無用!』でノックの選挙期間中に代理司会を務めた[[桑原征平]]が務め、息子の一貴の長男(ノック横山の孫、当時8歳)が「横山タコ」という名義で「タコチュ」というギャグを披露した。
 
== 公的場面での通名(芸名)使用について ==