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== 後亀山天皇と南北朝合一 ==
[[1391年]]([[元中]]8年/[[明徳]]2年)の[[明徳の乱]]で有力守護の山名氏を弱体化させ、武家勢力を統率した義満は、[[和泉国|和泉]]・[[紀伊国|紀伊]]の[[守護]]で南朝と領地を接する[[大内義弘]]の仲介で本格的交渉を開始する。[[1392年]](元中9年/明徳3年)初頭、足利一門の[[畠山基国]]の攻撃により、南朝の指揮官[[楠木正勝]]が楠木氏の本拠地[[千早城]]を喪失したことも、交渉の後追いになった。南朝から北朝への神器の引渡し、[[国衙領]]を大覚寺統、[[長講堂領]]を持明院統の領地とする事、皇位は[[両統迭立]]とする事など3か条を条件に和睦が成立し、[[1392年]](元中9年/明徳3年)に後亀山天皇は京都へ赴いて[[後小松天皇]]に神器を譲渡し、南朝が解消される形で南北朝合一は成立した([[明徳の和約]])。南朝に属していた[[公家]]は一部は北朝で任官したが、官職は既に北朝の公家で占められており、多くは公家社会への復帰が適わなかったと考えられている。
 
== 後南朝 ==