「ドイツ民主共和国」の版間の差分

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また、[[秘密警察]]である「国家保安省([[シュタージ]])」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった<ref>憲法には言論の自由、集会・結社の自由などが規定されていたが、それらはすべて「憲法に反しない」範囲とされており、結局第1条に規定されているSEDによる国家の指導権によって制約を受けた。また、刑法の規定ではSEDやソ連を批判するだけで1年から8年の[[懲役刑]]が科された(仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P74-75。</ref>。シュタージは職場や家庭内に[[非公式協力者]] (IM) を配置し、相互[[監視]]の網を張り巡らせた。
 
経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、1970年代までは中央・[[東ヨーロッパ]]の[[社会主義]]諸国の中で最も発展していた。一般家庭への[[自家用車]]の普及は進まず、常用された[[家庭用電気機械器具|電化製品]]も西側のものに比べ旧式であったが、テレビでは多数のCMが流されるなど、共産圏では異例の消費社会に到達出来できた生活水準([[中華人民共和国]]に返還される前の[[香港]]の一般庶民程度)を実現したと言われる。そういった事もあって「(東欧経済における)'''優等生'''<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P157</ref><ref>永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』日本放送出版協会 1990年 P90</ref>」「'''東欧の[[日本]]'''<ref>伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P155</ref>」とも呼ばれていた。また[[女性]]の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。
 
[[1980年代]]には、裁判において[[陪審員]]制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、[[徴兵制]]導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも[[良心的兵役拒否]]が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。[[1987年]]には[[死刑]]を廃止した。なお、一定期間[[無職]]でいると、自分に合う、合わないといった職種選択権が無い、問答無用の[[強制労働]]が科せられていた。
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SEDにとってより重大だったのは、[[ハンガリー民主化運動|民主化]]を進めていた[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]政府が、[[1989年]]5月2日に[[オーストリア]]国境の[[鉄条網]]の撤去に着手したことにより、「[[鉄のカーテン]]」が綻んだことであった。これを見た多くの東ドイツ市民がチェコスロバキア経由でハンガリーへ出国し、[[ベルリンの壁崩壊#東ドイツ国民の大量脱出|大量国外脱出]]が始まった。ハンガリー政府は[[1989年]]8月19日には非公式ながら東ドイツ国民のオーストリアへの出国を許可し([[汎ヨーロッパ・ピクニック]])、さらには9月11日には正式に東ドイツ国民にオーストリアへの出国を許可した。
 
これを受けて10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖して市民の流出を止めようとしたが、国外へ逃げることが出来できなくなった市民たちはその不満を体制批判へと転化するようになっていった<ref> 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P83</ref>。定期的に開催された[[月曜デモ (1989年)|月曜デモ]]で、公民権運動で改革を目指した抗議が行われた。[[東ベルリン]]で10月7日に建国40周年記念祝典が行われていたので、デモは治安部隊によって解散させられていたが、2日後に大規模抗議デモが[[ライプツィヒ]]で起こると、東ドイツの[[東欧革命|平和革命]]が爆発した。ホーネッカーはデモを武力で鎮圧しようとしたが、結局失敗した<ref>永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』([[日本放送出版協会]] 1990年)P100-101</ref>。また、建国40周年記念祝典出席のために東ドイツを訪れたゴルバチョフは改革を行わないホーネッカーに対して明らかに不満気な態度を取り<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P9</ref>、SEDの党内からも批判やホーネッカー下しの動きが強まり始めた。こうして、10月17日の政治局会議でホーネッカーの解任動議が可決され<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P17-18</ref>、10月18日にホーネッカーは退任した。
 
後任の[[エゴン・クレンツ]]書記長と新[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部は国民との対話を提案したが、国家と党の体制崩壊を引き止めることはできなかった。[[1989年]]11月9日の夜、SED政治局員[[ギュンター・シャボフスキー]]が誤って西側への出国許可が「遅滞なく」下りると発表すると、[[ベルリンの壁]]に市民が殺到し、[[ベルリンの壁崩壊|壁は崩壊]]した。
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しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』([[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』([[NHK出版|日本放送出版協会]] 1990年)P80-81</ref>。
 
このように政治的には西と対立し、分断国家の固定化を進めていたがその一方でホーネッカー政権は経済面では西との交易を進めた他、東ドイツ国民の消費生活を維持するために西ドイツから銀行保証付きの借款を受けていた。また西ドイツが[[ローマ条約]]締結時に東ドイツとの貿易は「国内取引」であり無関税・無課税であると主張したため、実質的に[[欧州共同体]](EC)の一員と同じ条件で貿易が出来できるという他の東側諸国に比べて恵まれた立場を享受することが出来できた。東ドイツが他の社会主義国よりも経済を発展させることが出来できた(その代わり西への債務も増大したが)のは、この側面も無視できない<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』P155-P156、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78</ref>。
 
==== 日・東独関係 ====
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== 経済 ==
{{See also|ドイツ民主共和国の経済}}
上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツは[[ルール工業地帯]]を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた<ref>ただし、[[ビール]]や[[コーヒー]]などの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代には[[チコリ]]の根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずに[[ビール純粋令]]を遵守出来できないようなものしか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。</ref>。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159</ref>。
東ドイツは東欧社会主義国より有利な面もあった。一つ目はドイツは第二次世界大戦前に、比較的工業化が進んでいたこと、二つ目は「西ドイツとの関係」でも述べているように西ドイツとの貿易では特殊な地位にあったために実質的にEC加盟国と同じ条件で西側と貿易できたこと、三つ目には西ドイツから多額の借款を受けることが出来できたことである<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78</ref>。
 
また、ホーネッカー政権下の経済成長と消費者の満足を追求した政策は、環境の破壊と西側からの上記の対外債務による財政の破綻という結果を招き、ひいては1980年代末の東ドイツの政治的破産を招く結果になった<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P74-75</ref>。
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* [[バーデ 152]] - 東ドイツが独自に開発した民間旅客機機種。
* {{仮リンク|メルクスRS1000|de|Melkus RS 1000}} - 東ドイツのカーレーサー、{{仮リンク|ハインツ・メルクス|de|Heinz Melkus}}が制作し、比較的高価格で販売された乗用車。共産圏では珍しいスーパーカーでもあった。
* {{仮リンク|シュヴェーデンアイスベッヒャー|de|Schwedeneisbecher}} - 英語名では「スウェーデンアイスパフェ」。バニラアイスをベースに、林檎味ムース、卵黄リキュール、生クリームを加えて作るアイスデザート。冷戦時代である1952年に開催された[[オスロオリンピック|オスロ冬季五輪]]大会[[アイスホッケー]]競技において、敵対国家である西ドイツ(当時)代表がスウェーデン代表に3:7で大敗したことに狂喜した当時の東ドイツ国家評議会議長「[[ヴァルター・ウルブリヒト]]」により命名されたとされる<ref>[http://osanpoberlin.blog.fc2.com/blog-entry-96.html 参考HP1]、[http://www.tsujicho.com/column/cat659/post-178.html 参考HP2]</ref>。
* [[オスタルギー]] - 旧東ドイツ国民が社会主義時代の過去へ寄せる[[郷愁]]を意味する造語。ドイツ語で東を意味する「オスト」と「ノスタルギー」(英語でいう「ノスタルジー」)との合成。
* [[ジークムント・イェーン]] - 旧[[国家人民軍]]空軍少将、東ドイツ[[宇宙飛行士]]第一号。