「サミュエル・ロビンス・ブラウン」の版間の差分

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=== 献身 ===
[[File:Verbeck.Brown.Simmons.jpg|thumb|200px|[[グイド・フルベッキ]]、サミュエル・ロビンス・ブラウン、[[ダン・B・シモンズ]]]]
1836年に[[長老派]]の[[ユニオン神学校]]に入学した。1838年10月にユニオン神学校を卒業して、エリザベス・バートレットと結婚した。[[ロバート・モリソン (宣教師)]]を記念した[[モリソン記念学校]]の招きで同年10月17日に[[モリソン号]]に乗り、1839年2月19日に[[マカオ]]に到着する。そこで、[[モリソン記念学]]の校長に任命された。最初の生徒は6人だった。1841年にテキストを作るために[[シンガポール]]を訪れた。その際に[[ヘボン]]博士夫妻に出会った。1842年の[[アヘン戦争]]の終結の際に、[[香港]]がイギリスに割譲されたので、1842年11月1日の校舎移転にともなってブラウンも香港にした。しかし、1847年1月2日に夫人の病気のために、三人の中国人生徒([[容閎]]・[[黄寛]]・[[黄勝]])と共にアメリカに帰国する。三人の生徒はマンソン・アカデミーに入学し、ブラウンはニューヨーク州ローマに新設されたローマ・アカデミー校長に就任した。校長と兼任して、1851年より、ニューヨーク州[[オワスコ・アウトレット・ビーチ教会]]の牧師に就任した。その教会には、[[メアリー・キダー]]、[[キャロライン・アドリアンス]]、後のフルベッキ夫人[[マリア・マンヨン]]がいた。また、1856年に[[オーバン神学校]]の神学生の[[グイド・フルベッキ]]がブラウンの牧会をする教会に奉仕に来た。1855年のアメリカ最初の女子大学エルマイラ・カレッジの設立にも尽力した。
 
=== 来日 ===
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ブラウンは領事を通して、英語通訳養成のために、日本人青年のクラスを担当してほしいとの依頼を受けた。幕府が校舎を建てて、生徒の寄宿費用を支出して、毎日3時間ブラウンが英語を指導することになり、1862年に横浜英学所として運上所前の官舎で開校された。1862年9月にはイギリスの外交官[[アーネスト・サトウ]]がブラウンを成仏寺に訪れており、ブラウンはサトウの日本語教師もしている。
 
1863年5月30日米国公使の命令により成仏寺を立ち退いて一時ヘボンの家に滞在した。後に、ブラウン一家は借家を月30ドルで借りて、聖書翻訳を続けた。1867年5月に自宅が火災で焼失したので、ブラウンは一時アメリカに帰国した。1866年には、[[大原令之助]]ら6名の[[薩摩藩第二次米国留学生]]を母校のモンソン・アカデミーに入学させた<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/62/2/62_37/_pdf 19世紀後半のニューヘイブンにおける日米中異文化接触] 容應萸. 『アジア研究』vol.62, (2016)</ref>
 
=== 再来日 ===