「龍造寺長信」の版間の差分

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永禄11年([[1568年]])、長信は梶峰城を鎮光に譲り、小田氏の居城であった蓮池城を自らの居城とした。小田氏との友好を深めるため鎮光の妹を娶っていたが、[[豊後国]][[大友氏]]の圧力が強まると鎮光は大友氏に寝返ったため、梶峰城を追放され、再び長信が城主となった。[[後藤氏#利仁流後藤氏|肥前(武雄)後藤氏]]の[[後藤貴明]]が梶峰城を攻め取ろうとしたが、これを退けている。
 
[[大江神大神宮]]の再興、[[聖光寺 (多久市)|聖光寺]]や[[岩松軒寺]]の建立など、伝統的な宗教勢力との関係を良好にし、統治の安定を図った。また、近年に梶峰城跡で発掘された遺構は長信が城主の時代のものと推測されている。
 
龍造寺領国において、長信が軍事物資の調達に関わる任務に当たっており{{Sfn|鈴木|2011}}、特に軍事活動の中で木材調達に関わっていた{{Sfn|中村|2010}}。この背景には長信の本拠地の多久が材木供給地と近接しており、材木の調達や普請に関わる職人集団を長信が有していたためで、隆信は肥前西部を進行する上で長信を用いた{{Sfn|中村|2017}}。これにより龍造寺氏は軍事活動において、城郭などの普請を盛んに行う事ができ、肥前国内における勢力基盤をある程度構築する事に成功した{{Sfn|中村|2017}}。