「第1回東京箱根間往復大学駅伝競走」の版間の差分

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== 概要 ==
1919年10月、ストックホルム・オリンピックマラソン代表・[[金栗四三]]、東京高等師範学校教授・[[野口源三郎]]、明治大学・沢田英一のなかで、アメリカ大陸を継走で横断する計画が持ち上がり、実施するための代表選考会を開催することとなった。関東の多くの大学・師範学校・旧制専門学校に参加を呼び掛けるが、長距離選手を10人揃えられる学校は少なく、出場校は[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])、[[明治大学]]、[[早稲田大学]]、[[慶應義塾大学]]の4校となった。
 
往路は、1920年2月14日、土曜日であったため、午前中の講義を受けた後、有楽町の報知新聞社前を13時00分にスタート。1区は[[筑波大学陸上競技部|東京高等師範学校]]が首位。2区で明治大学が東京高等師範学校を抜き首位に立つと、順位を維持。そのまま5区明治大学沢田英一が往路優勝のテープを切った。以下、2位は東京高師、3位は早稲田大学。4位慶応義塾大学の到着は20時53分であった。このため、後半は松明をともしながら走り、ゴールした時には花火で合図を送ったという逸話がある。
 
復路は、2月15日7時00分にスタート。慶応義塾大学のスタートは往路優勝した明治大学のスタートから30分後であった。復路も明治大学が独走。9区終了時で11分以上の差をつけていたが、最終10区で東京高師が逆転。15時間5分16秒のタイムで総合優勝を果たしのは東京高師であった。以下、2位明治大学、3位早稲田大学、4位慶応義塾大学。優勝校東京高師と2位明治大学との差は僅か25秒で、1971年の第47回大会(優勝日本体育大学、2位順天堂大学)で23秒差が記録されるまで1位と2位の最小タイム差であった。なお一方で、復路スタート時2位から逆転した東京高師は、復路スタート時首位の明治との差が8分27秒あったが、こちらの記録は100年近くたった今でも、最大差の逆転劇である。