「飛鳥寺」の版間の差分

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一方、[[天平]]19年([[747年]])成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」([[587年]])とし、発願の年自体は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。『元興寺縁起』によると丁未年、三尼([[善信尼]]、[[禅蔵尼]]、[[恵善尼]])は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。そこで用明天皇が後の[[推古天皇]]と[[聖徳太子]]に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという<ref>大橋 (1996) p.133</ref>。当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる<ref>大橋 (1997) pp.135 - 136</ref>。
 
『書紀』によれば翌[[崇峻天皇]]元年([[588年]])、[[百済]]から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された{{Efn|『元興寺縁起』本文及び「露盤銘」にも百済からの技術者派遣についての言及があるが、技術者の人数はそれぞれ異なっている。}}。このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる<ref>{{Efn|{{Cite book|和書|last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |translator=井上光貞監訳、佐伯有清・笹山晴生 |editor= |others= |title=日本書紀II |origdate= |origyear= |url= |format= |accessdate= |edition= |date= |year=2003 |publisher=[[中央公論新社]] |location= |series=中公クラシックス |language= |id= |isbn=4121600584 |oclc= |doi= |volume= |page=320 |pages= |chapter= |chapterurl= |quote=この歳、百済国は、使と、僧{{ruby|恵総|えそう}}・{{ruby|令斤|りょうこん}}・{{ruby|惠&#154045;|えしょく}}らとを遣わし、仏の舍利を献上した。百済国は、{{ruby|恩率|おんそつ}}{{ruby|首信|すしん}}・{{ruby|徳率|とくそつ}}{{ruby|蓋文|こうもん}}・{{ruby|那率|なそつ}}{{ruby|福富味身|ふくふみしん}}らを遣わして調をたてまつり、あわせて仏の舎利と、僧{{ruby|聆照律師|りょうしょうりっし}}・{{ruby|令威|りょうい}}・{{ruby|恵衆|えしゅ}}<small>(恵総と同一人か)</small>・{{ruby|恵宿|えしゅく}}<small>(惠&#154045;と同一人か)</small>・{{ruby|道厳|どうごん}}・{{ruby|令開|りょうけ}}<small>(令斤と同一人か)</small>ら、それに{{ruby|寺工|てらたくみ}}<small>(寺院建築の技術者)</small>{{ruby|太良未太|だらみだ}}・{{ruby|文賈古子|もんけこし}}、{{ruby|鑪盤博士|ろばんのはかせ}}<small>(仏塔の相輪部分の鋳造技術者)</small>{{ruby|将徳|しょうとく}}[[白昧淳]]、{{ruby|瓦博士|かわらのはかせ}}{{ruby|麻奈文奴|まなもんぬ}}・{{ruby|陽貴文|ようきもん}}・{{ruby|&#14660;貴文|りょうきもん}}・{{ruby|昔麻帝弥|しゃくまたいみ}}、{{ruby|画工|えかき}}[[白加]]を献上した |ref= }}</ref>}}。同じ崇峻天皇元年、飛鳥の[[真神原]](まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年([[592年]])10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている<ref>浅井 (1999) p.8</ref><ref>大橋 (1997) pp.178 - 179, 204 - 205</ref>。
 
『書紀』の推古天皇元年[[1月15日 (旧暦)|正月15日]]([[593年]][[2月21日]])の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に[[仏舎利]]を置く」との記事があり、翌日の[[1月16日 (旧暦)|16日]]([[2月22日]])に「刹柱を建つ」とある。なお[[昭和]]32年([[1957年]])の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、当初の状況は明らかでない<ref>大脇 (1989) p.29</ref>。