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この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は[[銀]]での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスは[[アメリカ独立戦争]]の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、[[インド]]の植民地で栽培した麻薬[[アヘン]]を中国に輸出することで[[三角貿易]]を成立させた。清は[[1796年]]にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた<ref>[[加藤徹]]『貝と羊の中国人』p.92。</ref>。このため、[[1839年]][[林則徐]]を[[欽差大臣]]に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。
 
林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する施策を執ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスは、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌[[1840年]]清国沿岸に侵攻し[[アヘン戦争]]を始めた。強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派と[[ムジャンガ]]ら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、[[1842年]]イギリスと不平等な[[南京条約]](およびそれに付随する[[虎門寨追加条約]]、五口通商章程)を締結した。主な内容は、[[香港島]]の[[割譲]]や[[上海市|上海]]ら5港の[[開港]]、[[領事裁判権]]の承認、[[関税自主権]]の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的[[最恵国待遇]]の承認であった(その後、[[1844年]]に[[フランス]]と[[黄埔条約]]を、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[望厦条約]]を締結した)。
 
[[ファイル:Signing the Treaty of Tientsin.jpg|thumb|[[天津条約 (1858年)|天津条約]]の調印の様子]]